殺意

 軽い、違和感のようなものを覚えた。
 いや、違和感とは異なるものかもしれない、正確に言うのならば、正体の見えない嫌悪感、不快感、焦燥感?
 厭な感じ。
 単純に表現すれば、そんなところか。
「車が来ました。運転席にひとりですね」
「ああ」
 言われなくても判っている。数いる部下の中でも、この男はあまり使えない、察すると言うことを知らない、鬱陶しい、消し駒だ。
 無言で右手を差し出すと、男は少し怯む顔をした。
「双眼鏡」
 この状況で煙草を寄越せと私が言うか、それともガンを出して頭を撃ち抜くのか? 苛々する。
 助手席の、スモークを貼ったガラスを降ろし、渡された双眼鏡を覗く。この時刻、もうあたりは薄暗い、しかもこの距離で、まさか見つかりはしまいと思うが、まあ、見つかったところで、どうと言うこともない。
 私に刃向かえる人間は、今、この世には、いない。


 ここ数週間、久々に帰国し、彼の行方を捜していた。
 日本に戻るのはもう何年ぶりか、無論、今更望郷などは感じないが。
 海の傍、彼の診療所だとか言うところには、彼の姿は見えなかった。
 情報は雑多で、明らかに信憑性に欠けるものから、僅かばかり心を引っ掻くようなものまで、様々だった。もしも私にもまだ、心というものが残っているのならば。
 一つ、私のセンサーをかすめた噂がある。
 天才無免許医には、死神の恋人がいるそうな。
 死神とは恐れ入る。


 なあ、きみは覚えているかい。
 覚えているのかい?
 きみは、おれに夢中だったのだぜ。
 それこそ、雛が親鳥のことしか、目に入らないように。


 死神とやらの診療所は、木々に囲まれ、実に見張りやすかった。多分、死にたがりの死神なのだろうと思った。無防備に殺されるのを待っている、そんなところだ。
 死神の姿を、幾度か見た。
 鋭い美貌に、透き通る長い銀髪、背の高い、邪悪な天使みたいな男だった。
 さてこの麗しき死神殿が、本当に彼の恋人なのか。
 彼は、そう、この男に夢中なのか? 例えば、彼が私に夢中だったように。
 私を見詰めたようにこの男を見詰め、私に触れたようにこの男に触れ、私に抱かれたようにこの男に抱かれるのか? 私の知る彼は、とにかく臆病で、他人を信じることが何より下手な人間だったが。
 見張りを初めてから数日目に、漸くあたりが来た。
 日も落ちる時刻に、黒いセダンが敷地に滑り込んだ。
 患者の来る時間とも思えない、まるで人目を忍ぶように。覗いた双眼鏡に見えたのは、知っている、どころか、捜していた、彼の顔。
 荒んだな、と思った。
 無理もない、もう、あれから何年経ったのか。私がフランスへ発ったのは、彼がまだ医学生になったばかりの頃だった、当時の彼も充分に荒んではいたが、それでも幼い青年だった。
 世界一悪い医者になるだろうと言った私の言葉は、嘘にはならなかったらしい。
 彼の評判は上々だった。神と崇めるものもいれば、悪魔と罵るものもいた。一度のオペに莫大な金をふっかけて、相手が大統領だろうが貧乏人だろうが知らぬ顔、まさに奇跡の指先ひとつで世界を渡る、たちの悪い、天才。
 私の相棒となるに相応しいだけ、彼は育った。
 そう、思っていたが。
 死神、か。


 なあ、きみは覚えているかい。
 おれははっきりと覚えているのだぜ。
 きみはおれの虜だった。心も身体もおれのものだった。
 なあ、おれは今でも偶に、冗談のように夢に見るのだぜ。
 赤い瞳を潤ませて、おれに身体を開くきみに手を伸ばす、辛気くさい、夢を。


「男が車を降りました。奴ですか」
「ああ」
「やっと見付かりましたね、捕まえてきましょうか」
「必要ない」
「必要ない?」
 苛々する。
 双眼鏡の向こう、彼は真っ黒ななりをしていた。黒いスーツに、黒いコート。ただ、リボンタイだけが、鮮やかなブルー。
 薄闇に溶け込むような、ゆっくりとした歩調で、診療所の入口ではなく、真っ直ぐに玄関に向かう。じわじわと、頭に残る鮮明な記憶が肌に移る。苛々する。
 夢中だったのは、彼の筈、彼だけだった筈。
 切り捨てた望郷でもない。
 彼がドアを叩くと、暫くして、家の中から男が姿を見せた。銀髪の、死神様だ。恋人に見せるにしては、皮肉めいた、揶揄うような、冷めた笑みを浮かべていたが、多分この男にしてみれば、それでも甘い表情ではあるのだろう。
 こちらに背を向けている、彼の顔は見えなかった。
 白い右手が真っ黒のコートからすっと差し出され、ドアを押さえる死神の腕に軽く触れ、すぐに引っ込んだ。
 違和感。
 いや、違和感ではないのか。嫌悪感、不快感、焦燥感。
 厭な感じ。
 何故か、口惜しい。
 飼い犬に解けない鎖をつけたと思い込み、暫く構わないでいたら、いつの間にか誰かに攫われていたような。
 一つ、二つ、言葉を交わして、彼と死神はドアの向こうに消えた。


 なあ、きみは覚えているかい。
 きみはおれの前でだけ、ツギハギの化け物ではなく、人間になれたのだ。
 きみはおれの前で、きみの中に潜む様々な感情に気付いた。
 きみはおれの前で、きみの持つ正と負の力を知った。
 おれの前で、或いは、おれの腕の中で。
 なあ、縫合の痕が醜く残る肌を晒し、きみはあのときおれだけだと言った、その言葉を覚えているのかい。
 おれは嘘吐きだ。
 きみもどうやらお仲間のようだ。
 それこそ、数え切れないくらいの女や男を抱いたものだけれど、きみほど鮮烈な人間には、おれは遂に出会わなかった。
 その赤い瞳は、人を狂わせる。
 抑えきれずに零れる細い声を、思い出す。
 なあ、おれは実に我が儘で、身勝手な男だ。裏切られたと思っても、可笑しくないかね。
 おまえはおれの従順な犬ではなかったか。


 庭へと続く広いリビングに灯りがつき、彼と、銀髪の男の姿が見えた。
 彼は、着ていた黒いコートをソファに投げ、青いリボンタイを右手の指で軽く弛めた。死神は煙草に火をつけながら、その彼を乾いた視線で眺めていた。
 抱擁しているわけでもない、口付けを交わしているわけでもない、淡々とした動作があるだけ、それなのに、そこに流れている空気は、反吐が出るほどに、濃厚に見えた。
 私が繋いだ鎖よりも、もっと強固な鎖で繋がれているような。
 私と彼が紡いだ時間よりも、もっと緻密な時間を編み上げられているような。
 厭な感じだ。
 厭な感じだ。
「踏み込みますか」
「必要ない、そんな野暮な真似はしない」
「せっかく見付けたのでしょう? また今度は何処に雲隠れするか」
「大丈夫だ、どうやらあの天才外科医、緊張感に欠けている。あれなら簡単に釣れるさ」
「緊張感?」
「牙を抜かれちまっているってことさ」
 嫉妬。
 まさか。この私が?
 彼がゆっくりと、煙草を燻らせる男に近付いていくのが見えた。両手を伸ばし、その銀色の髪を撫でる。優しくもなく、さりげなく。それが余計に鼻につく。
 髪を梳かれて、死神が唇の端でにやりと笑った。片手に煙草を持ったまま、もう片方の手を彼に伸ばしかけ、しかし、そこで不意に、男の視線が動いた。
「…」
 気付いた?
 双眼鏡の向こうと、きっちり目があって、私は思わず双眼鏡から顔を上げる。
 男は伸ばした手で、開け放っていたカーテンをさっと閉じた。視界から完全に彼等の姿が隠されて、私は漸く自分に腹立った。
 何をしている、暗黒街の、皇太子。
「ピエール、出せ」
「え」
「車を出せ、今日はもう戻る」
「しかし」
「疲れた。早くしろ」
 双眼鏡を後部座席に放り投げ、助手席のシートに身を埋めて目を閉じる。おどおどとエンジンがかかる車の振動さえも、今は不愉快だ。
 カーテンの向こうで、彼はあの男に抱かれるのだろうか。
 私に見せた、艶めいた顔を、あの男に見せるか、私に見せた涙を、歯を食いしばり、快感に耐える表情を。
 厭な感じだ。


 なあ、きみは覚えているかい。
 おれには、手に入らないものなど無いのだ、そうやって何でも手に入れてきた、覚えているかい。

 なあ、きみ、もうおれの手からは逃げてしまったのか。

 なあ、きみ、殺意の理由としては、それで充分だと思わないか。

 飼い主の二人いるペットなど。

(了)