綱渡り

 真っ白な羽が見えた。


 廃墟のような病院の五階、屋上へ続く階段を上り、錆び付いたドアの鍵は拾った針金で開けた。
 外は夜、周囲には他に高い建物もなく、見渡す人工の光は、間違えてばらまいた飴玉みたいに、頼りなくて、散り散りだ。
 ざっと彼の黒いコートの裾を、揺らして冬の風が通り抜ける。
 柵の朽ちた屋上にふたり立ち、肌を切るような冷たい風に、密かに酔う。
 妙な気分だ。
 光を見たのか、闇を見たのか。
 私は満足したのか、不満なのか、そんなことはどうでもいいのか。
 白く浮かぶ満月は、手が届きそうに、近い。


 亡霊の棲み付く、見捨てられた病院、今やまともに設備も整わぬオペ室。
 無駄と知りながらメスを取った彼は、神々しいほどに眩しく、また、吐き気がするほどに、暗く、淀んで見えた。彼は清廉で、かつ、彼は醜悪だった。全て自覚している赤い瞳は、澄み渡り、濁り切っていた。
 やめておけ、と私は言った。
 判っている、と彼は言った。
 彼は美しく、惨めだった。私には彼がメスを取った理由が、少しは解るような気がした。手は貸さずに私はただ待った。予定された死を彼が確認するまで。
 在り来たりな議論にはもう飽きた。
 最後まで苦痛と恐怖を長引かせた彼は悪か。
 最後まで夢を見させた彼は救済者か。
 多分どちらでもあり、多分とうの昔にその疑問は、疑問ではなくなっていた。禍々しいブラックホールのように、何もかもを飲み込んで、彼は手負いの獣みたいに神経を張りつめて、そこへ立っていた。
 彼は自分が正しいとは思っていないだろう。
 彼がメスを握ることに高尚な意味など、ない。
 それがなければ生きてはいけない中毒者、血走った目をして命を掬い上げることで彼は何かに抵抗している。それは形をなさない混沌かも知れない、或いは甘美な死の誘惑かも知れない。
 死に魅入られた人間が、どうすれば生きられるか知っているか。
 憎悪と怒りだ、そのエネルギーだけが、唯一、死の魅力に勝てる。
 そうでなければ諦念が。
 彼の胸にはエネルギーが渦巻き、諦念が居座っている。
 鼓動に触れ、血に塗れて、生と死の境で足掻きながら彼は生きている。


「このまま月まで歩けそうだ」
 黒いコートを風に靡かせて、彼は満月に向かってまっすぐ歩いた。本当に彼ならばそのまま夜空を歩き出しそうだと私は思った。
 錆落ちたのだろう柵のないコンクリートの端まで歩いて、虚空の手前、彼はぴたりと立ち止まる。
 すっと私を振り向いて、月明かりで漸く判る薄っぺらい笑みを浮かべて、言う。
「なあ、ドクター・キリコ。おれがこのままここから落ちようとしたら、おまえさん、どうするかね」
「グッドラック、ブラック・ジャック」
「とめないのか?」
「とめる義理もあるまい」
「共に落ちてはくれないか」
「義理があるのか?」
「何度も愛し合ったじゃないか」
「浪費し合ったのさ」
「冷たい男だ」
 く、く、と乾いた声を洩らし、彼は満月の下、笑みを深めた。漆黒の影、傷痕、血色の瞳、まるで悪魔のようだと思う。
 彼は私の言葉になど興味もないように、今度は私に横顔を向けて、ふわりと両腕を左右に開いた。踏み外せば奈落へ真っ逆さまの、コンクリートの端をタイトロープにして、命綱もつけずに世にも美しい月夜の綱渡り。
 一歩。一歩。
 冬の風が駆け抜けるたびに、コートが翻り、彼の細い身体が揺れる。
 私は屋上の真ん中に突っ立ったまま、金も払わぬ観客、その彼をだた眺めている。


 メスを置いた彼は、死の香りがした。
 血肉の匂いは既に、彼の匂いそのもののような気がした。
 彼の敵は誘惑、自ら片足に枷を繋いで、懸命に刃向かうそのもう片方の足が、底のない沼に浸かっている。
 彼が私の背に何を見ているか、知っている。
 首を掻き切る鋭い鎌、死神、私が彼を殺そうとすれば、彼はおそらく拒むまい。
 私を罵りながら、彼は羨んでいる。私の手で眠る罪人、私に罰を預けて、永遠に瞼を閉じる、夢も見ない安らかな夜へ。
 指の隙間から零れ落ちる命に、だから彼は一人涙を流す。


「金なんか持ってなかったろう、あの患者」
 今にも闇に落ちそうな屋上の端を、全く楽しそうに彼はゆっくりと歩いた。強い風に時々バランスを失って、左右に伸ばした両腕が優雅な弧を描く。
 趣味の悪い見せ物だと思う。
「こんな半分腐った病院に取り残されて。なあ、よくもまあ出向いたものだよな、ドクター・キリコ、随分と安い殺し屋になったじゃないか」
「そう言うおまえこそ、お安い無免許医になったな」
「時々どうしようもなく血が見たくなるのさ。やつめ、金を払えなかったから、死んじまったんだ。命は金で買えるのさ、おれはやつをちゃんと殺したぜ」
「同情して欲しいのか? 嘲笑って欲しいのか」
「望めばその通りにしてくれるのか?」
「義理はないな」
「おれが今ここから落ちたら、おまえさん、少しくらいは笑ってみせるかね」
「さあて」
「嫌いだよ、おまえさんのことなんて」
 満月が連れてくるものは麗しき狂気、今ならばいとも簡単に手に入るのかも。


 汗ばんだ肌を擦り合わせ、いつだって、私達は何をしたかったのだろう。何をしたいのだろう?
 欲しいものがあるのか、夢など見られると本気で思っているか、違う、ただ、一瞬の生が、一瞬の煌めきが。
 このちっぽけな惑星で、繰り返される裏切り、執着と憎悪、悲喜交々、何もかもが馬鹿馬鹿しくて、何もかもがいじらしい。煩わしくて、愛おしい。いずれすべてが無に帰する魂。
 見たいものがあるのだ。
 夢ではない、現実を。
 おまえの迸る熱を、色めいた肌を、おまえも見たいのだろう? 生きている証を。


 目が眩めば闇の中へ真っ逆様。
 命綱はない。
 灯火を乗せて、右に、左に、ゆらゆら。


 だって私達、それしか出来ないんだもの。
「死んだら星になるのかな」
 左右に伸ばしていた両腕を頭上に掲げて、彼は夜空を仰いだ。
 黒いコートが風に翻り、髪が揺れる。ほんの僅かに重心をずらしたら、落ちる。
「なあ、ドクター・キリコ。おまえさんが殺してきた沢山の人間は、綺麗な星になったのか」
「おまえが生かせなかった人間は星になったかい、ブラック・ジャック?」
「人間が死んで星になるわけないじゃないか」
「そうだ、星になるわけがないな」
「死んじまったらそれでお仕舞いさ、人間なんて野蛮な作り物だぜ、切って、繋いで、生きたり、死んだり。だから、死んじまったらお仕舞いなんだよ」
「死にたいか?」
 ざっと一際強い風が吹く。
 そのうねりにまるで意志があるようだと思う。
 横顔を見せていた彼が私を振り向き、淡く微笑んだ。刹那の表情は、芳しくて毒々しい切り花みたいに儚かった。摘み取られて逃げ出して、根を張る場所も知らずに彷徨える。失われゆく命の水を飲み干して、少しでも途切れようものなら枯れてしまう。
 ああ、天に在す我らが母よ、我らが父よ。
 どうかこの、哀れなる咎人を救い給え。
 いや、違う、天には月が浮き星が輝くばかり、何者も居やしない、癒しはない。
 だから私達は。
 彼は、唇に微笑みを残したまま、ゆっくりと私に背を向けた。夜空に掲げた腕を再度左右に広げ、しなやかな指先、ふわりと空を掴む。
 白々とした満月の下。
 淡い光を抱く、真っ白な羽が、その背に見えたような気がした。


 何処へ飛ぶのか、天使。


「…とめる義理はないんじゃなかったのか?」
 咄嗟に駆け寄って抱きしめた腕の中、彼は少し可笑しそうな声で言った。
 一歩前は底の見えない真っ暗な奈落、見下ろしていると重力を忘れてしまいそう。
「なあ、ドクター・キリコ。義理はないんじゃなかったか?」
「義理はないがね」
「おれは、今、あの月まで歩けたかも知れないぜ」
「歩けねエさ。人間は野蛮な作り物だからな」
「歩けねエか」
 風に乱れる彼の髪が頬に当たる。死の香り、血肉の匂い、よく知っているはずなのに、何故か、胸が苦しい。
 彼より先には死ぬまいと思う。
 私の背に潜む死神に、焦がれたまま彼が呼吸を止めるまで、私は死ぬまい。私が死ねば、彼はどうしてその孤独を慰められよう。
「おれが落ちても構わないんじゃないのか?」
「どうせ落ちるなら、おれの腕に堕ちろよ」
「…気障な男だ」
 く、く、と小さな声を洩らして、彼は笑った。腕に抱いた細身の身体から、すっと力が抜けるのが判った。


 ああ。
 どうか。


 その羽はまだ仕舞っておいてください、星を間違えた悪魔、或いは天使。
 いつか飛び立つその夜には、私が必ず手伝ってあげるから。

(了)