腕を縛る。

「……なにをしている、キリコ」
「縛ろうとしている」
 シーツへ投げ出していた右手の指の隙間に、彼の指が入り込んできた。そのまま指を組み合わせるようにしてぎゅっと握ってくる。そこまではまあいい。
 そのあと彼は、重なり合った私と彼の手首に、投げ捨ててあった私のリボンタイを巻き付け始めた。
「どうして縛る」
「おまえが夜中に逃げちまわないように」
「……」
 つい見やった彼の顔は、別段冗談を言ったつもりでもないようだったし、だとしたらえらい恥ずかしいことを言ったことになると思うが、その自覚もないようだった。ただ平坦な眼差しで、リボンタイを見ている。
 いくら指先が器用といえども、右手だけでそれを縛るのは難しいだろう。タイをクロスさせるのは割と簡単だったようだが、その先に苦労している。
「……子供みたいだな」
「よく眠れない」私の顔は見ずに彼は淡々と言った。「でも、おまえさんが傍にいると暖かくて結構眠れる。ところが今度は、眠っている間におまえさんがどこかに行っちまうんじゃないかと不安になって、よく眠れない」
「……子供だな」
「心配性なんだ。誰かさんは浮気性だから」
 何度か失敗したあと、右手だけで縛るのは無理だと悟ったらしく、彼はぐいと繋いだ手を引っぱるとそこに顔を寄せた。
 ひんやりとした彼の長い髪が手の甲に触れて、少し肌がざわめく。
 指先と歯で彼はリボンタイを縛った。顔を上げたあとに見えたのは、私と彼の手首を拘束する綺麗な蝶結び。まあ器用ではある。
「……こんなの、外そうと思えばすぐに外れるぜ」
「大丈夫。外れないように呪いをかけた」
「……せめておまじないと言え」
「そんなたわいないものがおまえさんに効くのか?」
「さあな」
 枕に顔を埋めながら戯れ言を聞く。彼の声は色気があって好きだと思う。間違っても優しくはないが意図的でない限り冷たくもない。時々熱を帯びるがそれは多分あまり多くの人間が知っているものではない。
 こんならしくないことをして、一体どんな表情をしているものかと横目で彼の顔を見た。彼は全く平然と私を見返すと、少し首を傾けて私の言葉を待った。色素の薄い瞳が、いつもより少し穏やかな色をしていると思う。
 そういうふうに見つめられるのは苦手だ。
 何故かこちらの方が気恥ずかしくなって彼に背を向けようとした。だが、繋がれた右の手首が引っぱられて上手くいかない。
「ちょっと寝にくいぞ、これ」
「こっち向いて寝れば?」
「……解く気はないのか」
「解かない。今更寝顔を見られるのが嫌か? 可愛いな」
「……勝手に見ろ」
 諦めて、真上を向いたまま目を閉じる。
 不意に頬に彼の髪が降ってきて、唇に掠めるような口付けが落ちた。
「おやすみ」
「……おやすみ」
 彼は時々、気味が悪いほどに甘い。




 真夜中に目が覚めた。
 ぼんやりとした意識のまま、何故目が覚めたのかと少し怪訝に思う。
 耳を澄ませても、特に不審な音はない。目を開けても、特に見慣れぬものはない。
 もう一度寝直そうと目を閉じて、ふと、その不自然さに気が付いた。
 触れた肌から、隣で眠っている彼の呼吸が、時々、ほんの僅かに乱れるのが伝わってくる。
「……キリコ?」
 起きている?
 潜めた声で彼を呼んでも返事はない。眠っている。
 繋がれた右手は極力動かさないようにして、身を起こした。そっと耳を胸に当てる。脈拍正常、呼吸音も正常、ただ時々リズムが狂う。
 覆い被さるように、彼の向こうへ手を付いて、薄暗い部屋の中彼の顔を覗き込む。
 そこで思わず息をのんだ。
 瞼を閉じた右眼から、音もなくこぼれ落ちる、涙。
 泣いて、いる?
 眠る顔に特別表情はなかった。静かな寝顔だ。それなのに、まるでそこだけ不自然に付け足したように、彼の目からは涙が落ちていた。こめかみを伝って、一粒、二粒。
 止まらない。
 嫌な夢でも見ているのか。どうしようもなくてただ見つめる。彼の涙など一度も見たことがなかった。彼が泣いているなんて信じられない。
 よく眠れない、と言った。
 おれが隣にいるのに、今も?
「……な、い」
 眠る彼の唇から、微かな声が洩れた。寝言。
 聞き取ろうと更に顔を寄せる。
「……が、足り、ない」
 足りない。
 何が?
「…れじゃ、オペが、…きないよ」
「ッ!」
 これじゃオペが出来ないよ。
 思わず、殆ど無意識のうちに、彼の向こう側に付いた左手がぎゅっとシーツを握りしめた。
 この男、いつの夢を見ている!
「……ブラック・ジャック?」
 その時唐突に、彼の瞼がすっと上がった。
 低い声が、全く普段のままの調子で言った。
「おまえ、何故泣いている?」
「……っ」
 殆どくっつきそうなまでに彼に覆い被さっていた身体を慌てて跳ね起こす。今まで寝ていたくせに、どうして急に起きるんだ。
 彼は、ほんの数秒の間、無表情でこちらを見るともなしに見ると、すぐに瞼を下ろしてしまった。寝息が聞こえてきたのはそれと殆ど同時だった。なんだ、寝ぼけていたのか?
 飛び上がってしまった鼓動を収めながら彼の寝顔を見下ろす。ベッドサイドのランプの光で、銀の髪が微かに煌めく。
「……」
 ああ、もう、泣いてない。
 再度顔を近づけて、完全に眠っているのを確かめてから、指先で彼のこみかみに流れた涙のあとを拭く。新たに零れてこないことを確かめて、今度は自分の頬に手をやる。
「……クソ」
 本当に泣いている。
 少し乱暴な動作で彼の隣に身体を横たえ、シーツを引っ張り上げて自分の頬を拭いた。
 繋がれた右手。
 逃げちまわないように。
 呪いをかけた。
「……おまえのせいだ」




 翌朝目を覚ますと、彼は既に起きていた。
 枕にもたれ、煙草を吸っている。律儀にも私の手首と繋がった左手はそのまま。
「おはよう」
 私が目覚めたことに気付き、彼はこちらを向くと、珍しくにっこりと笑って言った。何の衒いもない微笑み。そんなふうに、無償で、惜しげもなく晒されると少し困る。どう返したらいいかが判らない。同じように笑ってみせるなんてとても出来ない。
 仕方なくひとつ欠伸を洩らして誤魔化した。
「……おはよう。……で、よく眠れたのか?」
 ちらりと重なった手首を見て示す。
「眠れた」
「途中で起きなかったか?」
「起きなかった」
「昔の夢は見るか?」
「……どうして?」
 彼は僅かに訝るように眉を顰めた。ああ、笑顔が曇った。
 何でもない、と早口で言って視線をそらせる。訊いたってどうしようもないことを訊いた。たとえ誰にだってその答えを聞く権利なんかないのに。
 彼はきっとその夢を見続けるのだろう。
 一人で泣きながら。
 想像もしてはいけない。それは冒涜というものだ。彼と、それから彼の手で眠りについた人間に対する。
 不意に、ひょいと彼の自由な右手が伸びて、私の髪をくしゃくしゃと撫でた。視線を戻すと、彼は再び鮮やかに微笑んで、銜え煙草のまま私の言葉に答えた。
「いや。昔の夢など見ない」
「……」
 ウソツキ。
 ああでも。
 そうしておれの前で笑うなら。
「……もし」髪を梳く彼の指を許しながら、ぼそぼそと言った。「何か足りないときは…薬とか器具とか…足りないときは私に言え。貸してやるから。オペが出来るように」
「……つまりおれがそんなに貧乏だと?」
 彼は片方の眉を上げた実に彼らしい表情になった。私はようやく少しだけ笑って、手首に巻き付くリボンタイを解いた。
 呆気ないほど簡単に解けた。私と彼を繋ぐ細い鎖。
「なんだよ、外しちまうの」
「……これがなくたって、もう逃げられない」
「ふうん? 可愛いことも言えるんだ」
「逃げないんじゃないぜ、逃げられないんだ、逃がしてくれないんだろ?」
 リボンタイはベッドサイドに放り投げ、彼に背を向けてシーツにくるまる。くすくすと抑えた笑い声が聞こえたあと、首筋に彼の唇が触れ、すぐに離れた。
「逃げたいのか?」
「もう少し寝る。寝不足なんだ。……おまえのせいだ」
 彼の言葉には答えずに、文句をつけて枕に頬を埋めた。彼の手がシーツ越しに、子供を寝かしつけるように肌をそっと撫でに来た。ああ、これじゃまるで愛されているみたい。
 跳ね除けずに目を閉じる。
 背中に彼の体温を感じる。
 おやすみなさい。
 ねえ。
 いつかあなたが楽しい夢を見ますように。



(了)