嘘吐き

 そんなに近付かないでくれ。
 皮膚が破けそうなんだ。

 モット傍ニ近寄ッテクレ。
 肌ガ裂ケテ血ガ溢レ出スマデ。

 独りにしてくれ。そのドアを開けないでくれ。この薄暗くて狭い密室だけが私の世界。
 何にも誰にも囚われたくないんだ、何にも誰にも心奪われたくないんだ。
 私が触れるものは死者の温もりだけ、私が見るものは澄み渡る闇夜だけ。
 私が赦し私を赦し私を傷付けるものは私だけ。

 独リニシナイデクレ。ソノ扉ヲ開ケテ、コノ光ノナイ部屋ニ踏ミ込ンデキテクレ。
 何カニ夢中ニナリタインダ。誰カヲ想イ心潰サレタインダ。
 私ニ触レラレルモノハオマエダケ、私ヲ見詰メラレルモノハオマエダケ。
 私ガ赦シ私ヲ赦シ私ヲ傷付ケルモノハオマエダケ。

 戯れ言などまっぴらだ、私は愛なんて言葉は知らないんだ、何も欲しくはないんだ。

 愛シタインダ、愛サレタインダ、愛シ合イタインダ。

 罪を背負って生きていくんだ、全ての罰を受け入れるんだ、いつか独りきり死んでいくんだ。

 慰メタインダ、慰メラレタインダ、慰メ合イタインダ。

 甘イ口付ケガシタインダ、優シク囁キタインダ、強ク抱キシメテ欲シインダ、二人溶ケ合イタインダ。
 傷口ヲ寄セ合ッテ、血ヲ混ゼ合ワセタインダ、オマエノ中ニ私ガイル、私ノ中ニオマエガイル。
 愛シ合イタインダ。

 嘘吐き。

 私の身の内に何か蠢くものがあるとしたら、それはまるで遙か昔に封印された禍々しい呪いのよう、誰も手を伸ばす術を知らない、それを閉じ込めたはずの、私自身さえも。
 嘘吐キ。
 スグソコニ、脈打ッテイルクセニ。

 嘘吐キ。




「どうしてついてくるんだ?」
 深夜の病院の非常口、扉の前で彼は立ち止まり、振り返った。
 冷たく静まりかえった廊下は互いの呼吸の音さえ聞こえそう、一歩の距離まで近づいて見下ろした彼の赤い瞳だけが熱い。
 誰かが死んで、誰かが生まれる。最期の声と、産声。胸にしまったディスクをスキャン、大丈夫、私は何も感じない。
「キリコ。どうしておれについてくるんだ」
「別に」
「おれはおまえに負けたとは思っていない」
「おれも別におまえに勝ったとは思っていない」
「おれを嘲笑いたいのか? 慰めたいのか?」
「別に」
「嘘吐き。だったらなぜついてくる」
 手を伸ばして頬に触れてみる。トランクを床に置いて両手で包み込む。彼は、特には抗わずに、ただ上目遣いで私を睨み付けた。
 黒、白、緋色、象牙色。胸元には青、綺麗な配色。この物体に命が宿っているという神秘。この物体に思考があり感情があることの神秘、それから。
 指先で縫合の痕をそっと撫でる。好意とか悪意とか受容とか拒絶とか。求めるとか避けるとか。愛するとか憎むとか。歓び、哀しみ、安寧、焦燥、祈り。
 大丈夫、私は何も感じない。
 私は感じない。
「おれになにをしたい。おれをどうしたい? お優しい殺し屋さん」
「別に何をしたいわけでも、どうにかしたいわけでもない。気紛れだ」
「抱いて慰めてくれと言えばそうしてくれるのか?」
「別にそうしてやってもいいけど」
 てのひらに伝わる体温、ああ、私は何故それを禁忌とするのか。
 嘘吐キ。
 蓋を閉めたダストボックス、透けて見える薄汚いもの、うっかり躓いて蹴倒そうものなら、溢れ出してもう二度と閉じ込められない。
 オマエダケ。オマエダケ。
「都合のいい男だな」ぱんと私の手を振り払って彼は憎々しげに吐き捨てた。その生々しい感情が、さらけ出される怒りが美しい。「やってくれと言われればおまえはやるのか。誰が相手でもどんなときでも構わないか? おまえはどうしたいんだ、おれにどうして欲しいんだ、おれの何が見たいんだ。卑怯者、嘘吐き、悪魔」
「なぜおれが卑怯なんだ」
「おまえはいつだってそうだ、自分だけ完全防備したような顔をしておれに近寄ってくるんだ、自分だけ化けの皮を被って、自分では何も感じないふりをして、殻に隠って壁を作って溝を掘って、おれだけ素っ裸にさせて満足してるんだ、全ておれに言わせるんだ、卑怯だ」
「本当に何も感じないんだもの、おれ」
「嘘吐き。だったらなぜ今おれの傍にいる」
「さあ。別に意味なんてないんじゃない」
「意味がなくたって何か感じてるだろ!」
 両の拳で、胸を叩かれる。責めているというより焦れているという態度。嘘吐き、か。
 例えばここで何かを剥き出しにする、私を覆うカバーの厚みをゼロにして互いに何かを擦り合わせる、その行為は愚かだと思う。ぐにゃぐにゃとした柔らかい部分は、醜くて鬱陶しくて傷付き易い、もうそんな部分は私の中には存在しない、或いは存在するとしても、何万年かけて凍り付いた氷の下。
 彼が焦れる理由が判らない。いや、判っているけれど感じない。何故傍にいるのかと訊かれても答えられない。強いて言うなら私は光を目指し鱗粉を撒き散らす、毒々しい蛾のようなもの、ただ勝手に手が、足が、身体中の受容器が。
 そう、私は卑怯なのだろう。
 彼の言う通りなのだろう。
 それでも、これが私、これこそが私、これだけが私。
「おれをなんだと思ってるんだ…」
 胸を叩いた両手でコートの襟を掴み、彼は私の胸骨の上端あたりに額を押し付けて俯いた。
 その仕草に私は何を感じるか。違う、私は何も感じない。
 私は感じない。
 指先で彼の髪を撫でてみる。少し癖があって滑らかで細い。雨に濡れると、シャワーを浴びると、肌の上、毛先がくるりと跳ねてなんだかとてもコケティッシュになる。私はその様子をよく知っている。いつでも無意識に手を伸ばす私の癖を知っている。
 癖。精々がその程度。
 感触がいいから、その程度。
 ふわりと立ちのぼる彼の匂い、イキモノの匂い、私はこの匂いをよく知っている。
「何も欲しくないような顔をして、おまえはおれから全てを根刮ぎ奪っていく。おまえは狡い。汚い。冷たい。どうして何も言わない」
「狡くて汚くて、冷たいからだろ」
「どうしておれを放っておいてくれない。おれの前から消えちまわない? おまえが傍にいると、おれは何もかもおまえに盗まれる。どうしてだ? どうしておればかりこんなふうに惨めな気分になるんだ」
「おまえの気分なんて、おれの関知するところじゃない」
「おまえなんて嫌いだよ…」
 絞り出すように言われた彼の言葉は、語尾が少し震えていた。さてニンゲンはこの状況で、普通は何を感じるのか。
 愛おしいとか可愛らしいとか。可哀想とか切ないとか。寂寥、痛み、悦び、執着、嫌悪、胸が苦しい、抱きしめたいとか。
 叩きすぎて磨り減ったデリートキー、開けるきっかけもない処理済みの箱、幾重にも糊付けをして今では踏み台代わり、高い位置から覗いた世界には奥行きがない。
 ねえ、私は一昔前の機械。ペントソールをカリウムに切りかえるのがやっと。ねえ、私には感情がないんだ。ごめんね、私は何も感じないんだ。
 ねえ、私は嘘吐きだね。
 ねえ、私は正直だね。
 ねえ、恐怖ってどんな感じだろう。こんな感じかい。
 オマエダケ。オマエダケ。
「おまえはおれのことが好きなんだろう?」微かに懇願をちらつかせる彼の声、親からはぐれた子犬みたい。「おれのことが好きだから、おれの傍にいるんだろう? おれのことが好きだから、おれを抱くんだろう? 本当はおれが好きで好きでたまらないんだろう? もう好きだとも言えないくらいに」
「そうね、好きかもね」
「おれのことを愛しているだろう?」
「さあ、どうだろうね」
「おれに愛されたいだろう?」
「実はその言葉の意味を知らないのよ、おれ」
「…嘘吐き」
 嘘じゃない。
 彼は、非難というほどの強さもない口調で最後にそう切り捨てると、私の胸から顔を上げ、その美しい瞳で私を見た。揺れる視線、傷付いたろうか、ぐにゃぐにゃとした柔らかい部分。
 それから、コートの襟を掴む両手に力を込めて引き寄せた私の唇に、噛み付くような短い口付けをし、一瞬の後には私に背を向けて非常口のドアから彼は去っていった。
 閉まる扉の隙間に小さくなるのは、私を拒絶する、或いは追いかけてくれと必死で訴えかける彼の後ろ姿、踏み出す一歩を忘れた私の耳に、走り去る幻聴のような足音が届く。
 愛しているだろう。
 愛されたいだろう。
 嘘吐き。
 ああ、何が嘘で、何が嘘でないのか、何が本当で、何が現実、真実なのか。
 希み、夢、愛、欲望、抜け殻の私、閉じ込めた私、閉じこもる私、それが私、それこそが私、それだけが私。
 慰め合いたいんだろう?
 嘘吐き。私は信じない。
 すぐそこに、脈打っているんだろう?
 嘘吐き。私は信じない。
 唇に残る彼の味、空気に薄れて消えていく彼の匂い。
 彼の手触り。
 嘘吐キ。嘘吐キ。ダカラ、オマエノ魂デ。



(了)