頚動脈で脈拍をみる。徐々に弱く、遅くなる。
完全に触れなくなったところで時計を見た。23時22分。死亡時刻を書き記したいが彼のカルテはここにはない。
見下ろした顔は安らかだった。
二度と自分の力では開かない瞼をそっと上げて、ペンライトで瞳孔反射を観る。動かない。胸に触れる。動かない。再度顔に視線を戻し、ほんの僅かな微笑を残す唇に、指先で軽く触れる。
漸く訪れた安息に、彼は、満足したろうか。
「おやすみなさい」
誰かの代わりに耳元に言う。おやすみなさい、どうぞ静かで穏やかな眠りを。
身体を起こして時計を見た。23時26分。ナースセンターに直結するモニターの類は見当たらないが、だからと言ってのんびりしているわけにもいかない。
彼の頭部に取り付けた機器を外し、スーツケースにしまった。ついでにラテックスの手袋を外してそれもケースの中へ放り込む。ベッドの柵にかけておいたコートを取り、肩にかける。
23時31分。
病室のドアが開いたのは、そのときだった。
ノックはなかった。患者が眠っているかもしれないと思ったのだろう。静かに、ゆっくりとドアは動いた。今後は病院での仕事は断るか、病室の電気は点けずに処置をしようと溜息交じりに考えた。少なくとも、病院ぐるみでの依頼のとき以外には。
23時32分。
ドアの外に姿を見せた男は、目を見開いて、微かに掠れた声で呟いた。
「ドクター・キリコ?」
ああそうか、と少し納得する。
明日のオペは、彼が執刀する予定だったのか。
「こんばんは、ブラック・ジャック先生。元気そうで何よりだ」
「こんなところで何をしている」
「こんなところで、おれがすることは一つだと思うが」
戸惑いを隠せない赤い瞳が、自分を見ている。そうだ、彼のその目。
23時35分。病室のドアまで二十歩弱。ベッドサイドに置いていたスーツケースを左手で取る。
久々に見た、彼のその目が好きだと思った。彼の瞳はとても綺麗だ。特に、自分を映すその瞬間の、彼の瞳はとてもいい。
彼が自分を誰よりも強く意識していることを知っている。
それは恋に似ている。もっとも、彼は死んでも認めはしないだろうが。
「おまえさん、何を」
一瞬肩を強張らせたあと、彼は白衣を翻して病室に駆け込んできた。白衣の下はドクタースーツではなくていつもの真っ白なシャツにリボンタイ、どうやら明日のオペのためだけに病院に呼ばれているようだ。病室の明かりに気付くまで、一人きりでカルテでも資料でも眺めていたのだろうが、長い前髪をピンで留めているのが妙に可愛らしくてつい口元が緩む。
23時39分。
彼は患者の血の気のない肌を見るや否や、どちらが死人か判らないような顔色になり、慌てて患者の胸に手を当てた。動いていないと知ると、もう片方の手を重ね、心臓マッサージをしようと体重をかける。
その彼の手に、自分の右手を重ねて、患者に覆い被さる彼の耳元に言った。
「無駄だよ。おれの仕事に失敗はない。彼の心臓はもう動かない。せっかく楽になったんだ、無粋な真似はしないで静かに眠らせてやれ」
「なんてことを!」彼は私の手を思い切り跳ね除けた。「この患者は明日オペをすることになっていたんだぞ!」
「らしいね」
睨み付けてくる彼の目が怒りで煌いている。
23時42分。出来ればこんなところに長居はしたくない。ドアから地下駐車場まで非常階段で四分強。
怒りを湛えた、彼のその目は、とても綺麗だと思った。まるで触れたら火傷しそうな深紅の瞳。ほら、そうして。
おまえの目はもう私以外を映さない。
笑いたいほど、いつもの通り。
「肺の半分を息子から、腎臓一つを娘から、肝臓の一部は甥だか姪から、あとは何だったかな? とにかく、そんなにしてまで彼は生きていたくはないのだそうだ。大事な人の身体にメスを入れてまで、生きたくはないのだと」
「息子も娘も親族も喜んで臓器を提供すると言った」
「だから死のうと思ったのだろ? 自分が死ねば臓器提供も何もないからな。幸せだったと言っていたよ。充分愛されたと」
「だが、そうすれば患者は生きられたかもしれないんだ!」
ベッドを挟んで胸倉を掴まれ、引き寄せられる。逆らわずに彼のしたいようにさせる。左手には重いスーツケース。彼のほうが背が低いから、下から引っ張られることになって少しバランスが取り難い。
「生きられたかもな」唇の端だけで笑って見せる。「愛する子供達の肌を裂き内臓を引き抜いた罪悪感に苛まれながら、免疫抑制剤と化学療法でボロボロになって生きられたかもな。解らないのか? 彼はな、そんなにしてまでは生きたくない、と言ったんだぜ」
「患者が死ねば、残された人間がどれだけ悲しむか、おまえこそ解らないのか? それに比べたら肺が半分減ろうが腎臓一つ減ろうがどうってことないんだよ! それで患者が生きるなら!」
「生きるのは彼だ。そして死ぬのは彼だ。誰かのために生きるわけじゃないし、誰かが悲しむから死なないんじゃない、そんなのは欺瞞で、傲慢だ。大丈夫、残された人間の悲しみはいずれ癒える。なにせ夜中の突然の心停止だぜ、自然死じゃあしょうがない。天才外科医ブラック・ジャックだってお手上げだ」
「お前のやっていることは人殺しだ!」
彼の手に力がこもった。もう自分が静まり返った深夜の病院にいることも忘れているのだろう。すぐ目の前の、大事な患者のことさえきっと頭にない。彼のことで言い争っているはずなのに、本当は、彼のことではない。
23時51分。
冷静な男だと聞いている。冷淡で、冷酷でさえあると言う。それがどうだ、自分の前では、まるで手におえない子供みたい。
「そうだ、おれは人殺しだ」
綺麗な長い睫だと思う。くっきりとした二重の瞼。整った顔をしていると思う。傷跡は、彼が彼である証。
「彼は誰も悲しませたくなかったんだろ。家族も、おまえさんもだ、ブラック・ジャック。だから自殺じゃなくて人殺しに頼んだ。自然死に見えるように殺してくれと。こんなところでおれに会っちまうとは皮肉だったな、先生? だが、せめて家族は悲しませたくないよな、だったらうまいこと言っておけよ。もっとも、いくら血眼になって探したって、おれが彼の死に関わっているという証拠は出てこないが」
自覚もないのだろう至近距離。スーツの襟を掴む彼の手に、右手を重ねてやる。
23時53分。
彼は弾かれたように手を放すと、スーツケースを片手にドアへ向かう背中から、低い声で問いかけてきた。
「……私がオペをすると知っていたから、おまえさん、この仕事を引き受けたんだろう?」
「うぬぼれるな」
なるべく残酷に。
23時54分。言い捨ててドアを出る。こんなところに長居はしたくない。だが、あと少し、彼の声を聞いていたいとも思う。
大丈夫、彼は必ず呼び止めるから。
一歩、二歩、三歩。
「待て、キリコ!」
ほら、ね。
無視して非常階段へ向かうと、後ろから、足音が駆け寄ってきた。右手の手首を掴まれて立ち止まる。こんなときでもないと、そんな可愛い真似はしてくれないものね。
「……本当に」少し動揺した声。「患者が言ったのか。移植手術をして生きるくらいなら死んだほうがいいと、患者が言ったのか? オペが厭で死んだのか?」
「そうだよ」
「……だったら何故、患者は私にそう言わなかった?」
「言われたところで聞いたのか?」
右手を彼に掴ませたまま、半分だけ振り向いた。彼は一瞬、大人に拳を振り上げられた子供みたいな表情をした。僅かに指に震えが走る。
可哀想に、何をそんなに怯えるの。
そんな顔、私以外の誰かに見せるの。
「彼がオペを受けたくないといったら、おまえさんも、それから家族もだ、彼にオペを受けさせようと必死になるんじゃないのか? 万が一彼の望みを聞いたところで、その彼が、オペを受けなかった結果死んだら、それこそ、死ぬほど後悔するんだろ、彼を手術台に乗せなかったことを。彼は誰とも口論したくなかったし、誰にも後悔させたくなかったんだよ。だから少し早目の自然死だ」
今度は身体ごと振り向いて、彼の正面に立った。少し身体を折り曲げ、彼の視線と高さを揃えて目を合わせる。
途端に、彼は威嚇するかのように睨みつけてきた。刺すように鋭く、抉るように強く。だが、その赤い瞳には先程までの沸き立つような怒りはなかった。
彼が私にいつでも少なからず同調していることを知っている。
声を荒げて抗うのは、それを必死で打ち消すため。
「勘違いしてやいないか、ブラック・ジャック先生?」
目を細めて笑って見せる。少しの温度も感じさせないように、冷ややかに。
「全ての医療行為は誰のためにある? 患者のためだ、それ以外じゃない。患者が生きたいと言うのなら全力で生かせばいい、だが、死を望むのであれば死なせてやれよ、痛みなど少しもないように。ましてや相手はいい加減年取った大人だぜ? そのくらい選ぶ権利はないのか? ところがおまえさんは誰のためにオペをする。自分のためだろ? 違うのか? 自己満足って言うんだよ、先生。医者は患者の上にいるんじゃない。本当は対等ですらない、金を貰って働く技術者だ。医者は患者の望みをかなえるだけの道具に過ぎない。思い上がるな、そこにあるべきは患者の意志だけだ」
「私は……それでもおまえを赦さない」
手首を掴む彼の手が離れた。
24時03分。もう潮時だ。
彼に背中を向けて大股で非常階段へ向かった。今度は引き止められなかったし、引き止められても付き合う気はなかった。重い鉄製のドアを開けて、階段に出る。勿論この時間では人ひとりいない。
風に乱れる髪は構わずに階段を足早に下りた。ふと、たった今自分の手が殺した男の死に顔を思い出した。
24時05分。
彼は確かに微笑んでいた。だが彼は、もう二度とその表情を変えることはなかった。
ああ、そうだろう。
ああ、それでいいだろう。
それが、この手を穢すということだ。
24時07分。
右手の指先でキーを鳴らしながら、薄暗い地下駐車場へと急ぐ。早く部屋に帰って、粘膜が焼けるほどのきついアルコールを飲みたい。飛び切りに救いのない歌でも思い出しながらその中に沈みたい。
通り抜ける風に、感じるはずのない硝煙の匂いを微かに感じて、痛みもない左の瞼の裏に赤い海が広がった。
翌朝、ドアを叩く音で目が覚めた。
だるい腕を上げてベッドサイドの時計を掴む。05時32分。
時計を放り出すともう一度シーツに沈んだ。患者ならば診療所の方に回るはずだし、そもそも急患が来るような類の医院ではない。ましてや患者ですらないのなら、こんな非常識な時間に訪れる客など相手をしてやる必要もないだろう。
ところが敵はなかなかしぶとかった。
うるさくはないが、一定の間隔を置いて、ドアは鳴り続けた。もしも留守にしていたらどうするつもりなのか。それでも、放っておけば諦めるかと思い、数十分は待った。
叩く。少しの間静かになる。また叩く。その繰り返し。
06時03分。結局諦めてベッドを立った。負けだ。
薄暗いベッドサイドからひったくった煙草に火をつけ、スリッパを引っ掛けて玄関へ向かう。ガウンの紐を締め直しながら、どんな悪罵を投げつけてやろうかと考えた。たとえどこかの大国が核兵器のボタンを押したという伝令だとしたって睡眠を奪う権利はない。とっておきの笑顔で死ぬほど後悔させてやる。
鳴り続けるドアのノブを掴み、殊更ゆっくりと廻した。これもまたゆっくりとドアを開け、下から舐めるように無礼な訪問者へ視線を向けた。
ドアの外に立っていたのは、昨夜も同じようにドアの外に立っていた男だった。
ただし、昨夜はドアを開けたのは彼のほうである。今朝は白衣も着ていないし、前髪にくっついていたピンもない。
「一つだけ答えろ」
彼は低い声で言った。昨夜のような怒りも、動揺も感じなかったが、ありありと苦悩の色が見えた。なんという純粋な男。
病院から直でここに来たのだろう。死亡した患者の後始末に追われていたのか頭を抱えて一人悩んでいたのかは知らないが、昨夜は一睡もしていないに違いない疲れた顔をしていた。肌も唇も少し白い。珍しいことにリボンタイが曲がっている。重症だ。
「私は、正しいと思うことをした。それでも、私は間違ったのか?」
「何故それをおれに訊く」身体を引いて彼が通るスペースを作ってやりながら言った。「こんな時間に、わざわざおれの家まできて、おれの安眠を妨害してまで? おまえさんの望む答えを言ってくれる奴は他にいっぱいいるだろ、こんな顔も見たくないような商売敵じゃなく。……ほら先生、入れよ」
「答えろキリコ。私は間違ったのか?」
彼は縋りつくような目をした。無論自覚はないのだろうが。
咥え煙草のまま、その視線を絡めるように引っ張って背中を向けた。玄関先で生かすだ殺すだ議論するのは余りに馬鹿げている。仕方がない、コーヒーでもいれて、奪われた睡眠時間の代わりにするか。頭上で核が弾けても構いはしないが、そんな目をしているのが彼ならば少しは構ってやってもいい。
「キリコ」
廊下を数歩歩いたところで呼び止められた。更に数歩歩いてから、顔だけ振り向けて答えた。
「彼を殺したのは、おれだ」
「私は、」
「とにかく入れよ、ブラック・ジャック。そんなところに突っ立っていられても迷惑だ」
出来るだけ冷たく付け足す。
彼は、言い返そうとした口を閉じて、素直にドアをくぐった。いつもこんなに素直だったらいいのに。いや、それでは面白くないか。昨夜病室に駆け込んできたときとはまるで正反対の、鈍い足取りで廊下を辿る。
だが結局、リビングの入り口あたりで、彼は立ち止まってしまった。
「ブラック・ジャック」
「私が」彼は俯き、表情を隠す長い前髪の下からぼそぼそと言った。「おまえさんに、人殺しをさせたのだとしたら」
「おい、冗談はやめてくれ、先生。おれは彼に頼まれて、彼から金を貰って仕事を受けたんだぜ。彼を殺したのはおれだ。あるいは彼自身だ」
「私がオペをやると言ったから彼は死んだんだろう」
「それを言うなら、彼を殺したのは病気だ」
「答えろドクター・キリコ。誰かに長く生きて欲しいと願うことは罪か…」
遂には両手で顔を覆ってしまった。ああ、やっぱり重症だ。
リビングの灰皿に煙草を消し、俯く彼の前に立つ。僅かに乱れた髪が気になってつい飼い猫を撫でるように右手で梳いたが、彼は特に反応しなかった。普通ならば一秒は待たずに振り払う。
可哀想に。そうも応えたか。
まるで傷口の深さを見て欲しがる小鳥みたいに私の懐に転がり込む。
「しようのない先生だな」
両腕を伸ばして彼の体を抱きこんだ。戸惑うほど優しく、抗えないほど強く。彼は一瞬息を呑んで身体を強張らせたあと、それでも健気に抵抗をした。敵うはずもないのに。
「やめろ…なにをする! 放せ」
「慰めて欲しいんだろ、そのために来たんじゃないのか?」
「ふざけるな、私は」
「おまえの自虐を聞くのは嫌いじゃないがね。生憎おれはそいつを否定してやれるほど口がうまくない」
抗う身体を壁に押し付けて、言葉を封じ込めるように、いきなり唇を奪う。押しのけようとする両手を片手で彼の頭上の壁に縫い止めた。
弱みを見せて、食いつかれるのを待つ、悪い癖。
赦して欲しい、罰して欲しい、愛して欲しい、憎んで欲しい、何も考えられなくして欲しい、無意識の要求はいつも違うけれど。
「ン…!」
顔をそらせて唇から逃げようとする。その顎を押さえ、一方的に舌を入れた。
知らない人間は意外に思うのだろうが、この男は、本当に快楽に弱い。そして強引さに弱い。愛され、可愛がられることに殆ど細胞レベルで慣れているようなもの。
一体誰が彼をそうしたのか、そんなことは今はどうでもいい、ただ、彼が今選んだのは、私。
唾液を流し込み、喉の奥まで舌を這わせる。反射的に飲み込んで、ほら、それだけでもうおまえは崩れ落ちる。
「は、ア」
「おいしい?」
音を立てて下唇を吸い、今度は甘ったるく舌を絡ませる。片手で押さえ込んだ彼の両手が小さく震え、間近で眺める瞼を伏せた彼の顔が、あっという間に溶けた。
私だから。
私じゃなくても?
拘束する手を放してみても、彼はもう抵抗しなかった。
壁を伝ってずり落ちようとする彼の腰を抱きとめ、誘い出した舌を強く吸う。肩に縋り付いてきた両手は殆ど無意識なのだろう。彼の唾液は煙草の味がした。
「どうしておれのところに来た?」重なる唇の隙間に、訊ねた。「傷を舐めて欲しいならもっと適任がいるんじゃないのか? おまえのことだから」
「…あんた、が」
口付けの合間を縫って、彼が喘ぐように答えた。薄らと開いた瞼から覗く赤い瞳は、それを見ただけで押し倒したくなる程度には扇情的に潤んでいる。
「傷…ついたんだ。おれ、が、あんたを…、」
「……舐めてもらうだけじゃ足りないのか? 舐め合いたいなんて贅沢だな」
最後に軽く吸って唇を離し、もう一度彼の細身の体を抱きしめた。彼の香りが好きだと思う。無様にも癖になってしまいそうなほど。
傷ついた? 平気だ、私は傷つかない。
私はただ穢れていくだけ。
相変わらず生温いね、ブラック・ジャック先生。
「言えよ。おれじゃなくちゃ駄目なんだって、言え」
「ああ……」
彼は、肯定でも否定でもない色めいた吐息を洩らすと、肩口に顔を埋め、呆気ないくらいに簡単にこの腕に落ちてきた。
ライトを点けたリビングで、一人掛けのソファにその身体を押し込み、上から覆い被さると彼は明らかにたじろいだ。
口付け一つで蕩けてしまうほど慣れきっているくせに、まるで処女みたい。
「キリコ」
「抵抗してみれば? まあ無駄だがね」
構わずにリボンタイへ手を伸ばす。
過去に何度か、彼を抱いたことはあった。初めて寝たときには少し驚いた。よく研がれた刃物のような男は、男の腕の中で、温めたゼリーのように乱れた。快楽に溺れて淫らに鳴いた。
愛され慣れた肌をしていた。何処かの誰かが憎たらしいほど丁寧に、丹念に、時間をかけて作った肉体だった。痛みに逃げることも出来ないくらいに。
嫉妬などという感情は好ましくない。
それでももしかしたら少々むきにはなったか。こびりついた誰かの見えない指の痕を、一つ残らずその肌から消し去るように彼を抱いた。それでもきっとまたすぐに、知らない痕が付くのだろうと思いながら。
彼ほど愛情に貪欲な男を他には知らない。自覚もないまま、愛情に餓えて、無意識にそれを否定し全力で隠し、実は隠せていない。孤独を好むふりをして、自分すら騙す。顔をそむけ、背を向け、それなのに隠せていない。
自分からは手を伸ばせない。だから強引に奪われるのを待っている。
見せる相手を選んで、隙を作って。
いっそ檻にでも放り込み、もう二度と他の誰かの目には触れないよう、束縛してしまいたいとも思った。思ったが、そうしたら最後、その途端に彼は支配者への興味を一切無くすだろう。仕留めた獲物に餌は要らないと言わんばかりに。
彼の目を自分に向けておきたければ、それなりの距離がなくてはならない。
密着している部分と、かけ離れた部分が、一緒に存在していなければならない。突き放すその腕で奪わなくてはならない。見捨てた次の瞬間に抱擁を与えなくてはならない。甘い言葉を囁く唇で、残酷な台詞を吐かなくてはならない。傍にいなくてはならない。傍にいすぎてもいけない。
愛していると、言ってはならない。
大丈夫、私は心得ている。
おまえの綺麗な赤い瞳が、私を見るたびに感情で煌くように、その美しい揺らめきを見るために、私は何をすればいいのか、何をしてはいけないのか。
この死神の指が、おまえに触れるために。
「キリコ…!」
引き抜いたリボンタイをテーブルに放り、シャツのボタンに指をかけると、彼は咄嗟に手首を掴んできた。動きを封じようというより、戸惑っているといった様子。大して力は入っていない。
掴ませたままボタンを一つずつ外しながら、耳元に言った。
「駄、目。手を放して、センセ」
「こんな…ところで」
「大丈夫。すぐにおまえはここが何処だかも判らなくなっちまうだろうよ」
言ったついでに耳へ息を吹きかけてやると、彼の首筋に鳥肌が立った。宥めるように唇を伝わせ、時々、強く吸い上げて噛みつく。何度も繰り返しているうちに、彼の手が力を失って落ちた。行為の間に、力で押さえ込まれたり、強引に与えられたり、あるいは肌を噛まれたりすることが、彼は好きだ。勿論、死んでも否定するだろうが。
全てのボタンを外し終えると、シャツを左右に広げ、いきなり乳首に舌を這わせた。
「やめ…!」
びくんと身体を跳ねさせて、彼が声を洩らした。彼の指が後ろ髪に絡まり、少し引っ張られる。本気ではない、ただ形だけの抵抗。
やや乱暴に片手で払いのけて、きつく吸い上げる。硬くなったところで歯を立てる。舌を尖らせて揺さぶる。こうされるのが、彼は好きだ。たっぷり時間をかけて愛撫してやると、多分本当にそれだけで彼はいってしまうくらい。
「ああ…」
しばらくそうしているうちに、彼の腕が、今度は頬に触れ、躊躇いがちに頭を抱き込まれた。可愛らしい仕草をするものだ。髪にしがみつき、唇を受け入れ、喘ぐ。
まるで私達、恋人みたいね。
誰かの死体を餌に戯れあうヒトデナシ。
いったん唇を離し、もう片方の乳首も同じように舌と歯で刺激する。片方の手で身体中に残る縫合の痕を撫で、もう片方の手を彼の股間に伸ばすと、待ち焦がれていたかのようにそこは熱く硬くなっていた。
ベルトを外し、邪魔な服を下着ごと脱がせる。彼は腰を浮かせて従順にそれに従った。全く、なんという淫らな男。
だが、その片膝をすくい上げ、ソファの肘掛に乗せてやると、それまで殆どうっとりと行為を受け入れていた彼が、さすがに抗った。髪に絡み付いていた手が二の腕のあたりを握り締め、引き離そうとする。開かされた足がもがく。
「キリコ! いやだ…」
「恥ずかしくないだろ? 見ているのはおれだけだぜ」
顔を上げ、間近に彼の瞳を覗き込んで言った。ドアの向こうに立っている姿を見た時には血の気のなかった彼の唇は、紅く濡れてとても美味しそうだ。
「こんなの…やめてくれ」
「大丈夫」一つ短い口付けを落としてから囁いた。「いい子だから言う通りにして、先生。ここに足を乗せるだけだ。平気だろ? ほら、こっちの足も…そう…両足開いて。腰はもっとこっち、浅く。そう……上手だね」
「ふ…」
視線を捻じ込むように見詰めると、彼は呼吸を明らかに、不自然に乱した。瞳孔が僅かに広がり、胸を喘がせながら、まるで催眠術にでもかかったように、のろのろと指示に従う。
赤い瞳が潤み、みるみる涙がたまって、目尻から落ちた。
不本意なのに身体が言うことをきかないとでもいったところか。
「そのままにしてろ」
もう一度唇を吸って、身体を放す。目の前には罠にかかった獲物、もしくは罠を張った綺麗なケダモノ。
肩まで肌蹴た白いシャツ一枚で、両足を大きく広げ、腰を突き出した彼は大層エロティックだった。羞恥と屈辱と、おそらく身のうちに滾る肉欲に頬を染め、涙を流し。
張り詰めた性器がなんともいやらしい。
「キリコ…ッ」
「煩いな。天下のブラック・ジャック先生のハシタナイ姿を観賞してるんだ、動くなよ」
露骨に視線で犯してやる。髪の先から、曝け出された下半身まで、時間をかけてゆっくりと。
優しく抱くだけじゃおまえはどうせ満足しない。
そんな姿、他の誰かにも見せるの?
ねえ。
「キリコ…キリコ…」
そのうち、彼の乱れた呼吸が次第に啜り泣きに変わってきた。掠れた声で何度も名前を呼ばれてぞくりとする。
「もう…助け、て、キリコ。キリコ…」
「じゃあ、言えよ。おれじゃなくちゃ駄目だって、言え」
なんだかつい先程も言ったような言葉が口をついて出た。
「解いて、くれ。キリコ…呪縛、を、解いて…」
「そんなもん、かけてねえよ。おまえが勝手にかかってるだけだぜ。ほら、言えよ…触ってやるから」
「キリコ…」
「言え」
「…ン……あんた、が…」
彼は、唇を震わせ、殆ど聞こえないような微かな声で、言った。
きっと、うわごと。
「あんたが…あんたが、いい…キリコ…。だから…ッ」
「……四十点だな、先生」
軽い溜息を一つ聞かせてから、彼の前に片膝をつく。わざと髪が肌に触れるような角度で膝の内側に唇を当てると、それだけで彼は、聞いているこちらの頭の芯が溶けるような声を上げた。
まだ触れてもいない、晒された性器の先端が、体液で淫らがましく濡れている。
「ハア…」
「両手で自分の足を押さえて。ほら、広げるんだよ。おれに見て欲しいだろ? もっと奥まで広げて…そう」
「ん…キリコ…も、」
「そのままだ。ああ、よく見えるな。おれに触って欲しくて震えている。いやらしいね、先生」
顔を上げ、彼と視線を合わせて、そのまま焦らすようにゆっくりと自分の右手の指を咥えて見せた。自らねだるような姿勢を取らされた彼の、赤い瞳が彷徨うように濡れた指と唇を辿って、瞳に戻ってきた。
視線に捕らえられ、跳ね返すことも出来ない瞼が瞬きをするたびに、涙が幾筋も頬を伝って顎から落ちる。とても綺麗だと思う。どんなにあさましい格好をさせても、どんなにあさましい行為を仕掛けても、彼の涙は綺麗だ。
いっそ私の手でおまえも穢れてしまえばいいのに。
目を合わせたまま、唾液を絡ませた指を曝け出された後孔に伸ばし、もう片方の手で下から上へ掠めるように性器を撫で上げた。
「あッ!」
「おれを見てろよ…」
咄嗟にぎゅっと目を閉じた彼に囁きながら、右手の指で、反射的に強張る筋肉の入り口を揉み解す。左手で触れた性器はほんの少しきつく擦ってやっただけで今にも弾けそうだった。先端の滑らかな皮膚をてのひらでゆっくりと撫で回し、力を加減して粘液を塗り広げる。
彼の秘所はすぐに綻び、飲み込むように指を受け入れた。それでも最初は少しきついが、そのくらいのところを強引に掻き乱されるのが彼は好きだ。
「アア、ん…っ!」
「ほら、おれを見てろって。おまえの綺麗な赤い瞳を見せろ」
「あ…キリ、コ…!」
右手の指を内側に曲げ、内壁を押すように強く刺激してやると、一度は薄らと開いた彼の目はそれに耐えかねるというかのように再びきつく閉ざされてしまった。右手の動きに合わせて、左手で握り込んだ性器がびくびくと震える。
彼に名前を呼ばれるのは好きだ。
多分他の誰に呼ばれるよりも好きだ。
「キリコ…キリコ…ッ」
「イッていいよ? 先生。これじゃ辛いだろ」
探り当てた弱点を指先でまさぐり、悩ましく歪む彼の表情と悲鳴を楽しむ。性器を握る左手の力を少し強め、上下に何度か擦ってやると、それだけで彼は背を仰け反らせ、高い声を上げて達した。
「ああ…ッ!」
右手の指をちぎれるほどに締め付けられてぞくぞくする。
涙で染まった頬を汚し、汗で長い前髪を額に張り付かせ、唾液に唇を濡らして男の指に射精する猥らがましい姿。細身の体を痙攣させ、与えられる快感に屈服して。
知らない人間には想像もつかないのだろうと思うと、今彼をそうさせているのが自分であるという事実に僅かばかりの哀れな優越感を抱くが、知っている人間が他にもいるという事実を忘れるには充分でない。
てのひらで精液を受けて、射精の衝撃に震えている後孔に塗り込める。左手で思い切りその場所を開かせ、右手の指を二本根元まで突き立て内側まで丹念に濡らす。
堪えることも忘れたように、彼の唇から喘ぐ声が洩れた。達したばかりだというのに、彼の性器はすぐに反応を見せた。
こうして彼の股間に跪き、ただ犯すために準備している男が、誰だか彼は判っているのだろうか。
「一杯出たね。気持ちよかった?」
唾液と精液で湿った音を立てる秘所を指で掻きまわしながら言う。自ら押さえさせられた足に爪を立て、その刺激を逃がしながら、彼は僅かに瞼を上げてこちらを見た。
長い睫の影に、濡れた赤い瞳。熱湯を注がれた蜂蜜みたいに溶けている。
もっと圧倒的な、せき立てられるような強い快楽が欲しいと揺れている。
「気持ちよかったろ? 恥知らずに股を開いて、後ろに指を突っ込まれて、イッちまうのは気持ちよかったろ? おれに見られてたまらねえだろ」
「は…」
「おまえの乱れる姿は、とてもいい。いやらしくて、あられもなくて、ふしだらで、旨そうだ」
力のこもる彼の白い指先に唇を当て、そのまま、爪が刺さる肌に舌を這わせた。右手の指を深く飲み込む彼の肉がびくんと反応した。
左手を、既に再び硬くなっている彼の性器に戻して、軽く撫で上げる。
「ア」
「もう勃っちまったね、先生。続きがして欲しかったら、言ってごらん、今おまえをこんなにしているのが誰だか」
「ん…」
「言え。おれを、呼べ」
先端の敏感な部分をゆっくりと円を描くように擦り、窪みに爪を立てる。
「ブラック・ジャック、ほら」
「ドクター・キリコ…」
「もっと」
「キリコ…ああ…キリコ…ッ」
「そうだ。おれを感じてろ。おれを」
体液で濡らされ、大分解れてきた後孔に三本目の指を咥えこませる。赤い瞳を隠した瞼が睫を震わせ、唇からは快楽に掠れた悲鳴を撒き散らしながら、彼の肉体は確実にその過ぎる刺激を飲み込んでいった。
焦らすように長い時間をかけた。
正気だったらとても言えない淫らな哀願の言葉を、何度も言わせた。
まともに身体を動かすことも出来ないような狭いソファに埋め込まされて、散らせない熱に彼は全身の肌を赤く染めて耐えていた。
ああ、可哀想に、と思う。
清潔なベッドの上で優しく抱いて、耳元に恥ずかしくなるような愛の言葉をせっせと囁いてやれば、彼は辱めを受けないのかもしれない。だが、そうしてやれば彼にとってはそれはただの星の数。
少しくらい変態じみた行為のほうがいい。後で思い出して、彼がつい一人悪態を吐くくらいの。
思い出した途端に過去の知らない誰かとの睦みごとに紛れてしまうよりは。
ねえ?
美味しそうな毒入りのお菓子。
罪と罰を分け合いたいと言うのなら。
「キリコ…も、早く…、して、早く、して…ッ」
何度目かも判らない彼の言葉に、ようやく指を抜く。途中で唾液を足して濡らした場所はもう充分熟れて開いていた。
「早く、して? 何をして欲しい?」
ガウンの前を寛げながら言う。彼が気配に気付いて薄く目を開けた。
「ウ…あんた、の。あんたの…、を、入れて、くれ」
「おれの、なに?」
「ああ…熱くて、硬く、て、太い…の」
「おれの、熱くて硬くて太いのを、入れて欲しいのか」
頭の古いカウンセラーみたいに繰り返して彼の視線に自分の性器を触れさせる。彼の姿を見て声を聞いて、指先で触れるだけで彼の言葉通りになる代物に目を釘付けにし、息をのんだ喉の奥で彼は低く喘いだ。
「ヤ…大き、過ぎる…それは」
「イヤってったっておれはこれしか持ち合わせてない。大丈夫、今まで入らなかったことないじゃない」
「こ…の、体勢、じゃ、ムリ…っ」
「平気だ。おまえのここ、もうどろどろだから」
カーペットに膝をついたまま身体を寄せ、左手で限界まで開かせた肉の谷間に右手を添えた性器を擦りつける。彼は怯えたような、それでも期待するような声を上げてソファの中で身悶えた。
ニ、三度その場所を肉棒の先で撫で回してから、狙いをさだめて力を込める。
「ちゃんと足押さえてろよ」
「ああッ、待て…、破ける…!」
「平気だって」
ほんの僅かに先端が食い込んだだけで、彼の秘所は竦み上がってそれ以上の侵入を拒んだ。構わずに強引に押し込み、とりあえず一番窮屈な入口の壁を張り出した部分が通り越すまで腰を進める。
「アア! や、」
「ちょっと緩めろ、出来るだろ? そんなにきゅうきゅう吸いついてたらおまえがもたないぜ」
「キリコ…ッ、きつ、い」
「おまえがきつくしてんだよ」
両手で彼の尻を掴み、引き寄せるようにして更に結合を深める。唾液と、自らの精液で濡れた彼の内部は抵抗しきれずに、熱く蠢いて他人の性器を受け入れた。
張り裂けるような喘ぎを聞きながら、ゆっくりと根元まで埋める。じわりと握り込むように締め上げられて、その感触に吐息が洩れた。掴んだ尻を捏ねるように撫で回して力を調節する。
「ああ…気持ちいい。おまえは本当に、いつも気持ちいい。おまえもイイだろ先生? 痛くないだろ。ほら、こんなに上手に、咥え込んでいる」
「は…、アッ」
無理な体勢で串刺しにされ、びくびくと身体を震わせる彼には答える余裕もないようだった。だが、腹に擦りつけられる、先程までより更に硬く立ち上がった性器が、彼の身体に走る快楽を伝えていた。
ゆっくりと肉棒を引き抜いて、同じ速度で再び深く沈める。沈めた位置で、入っていることを確かめさせるように、じっくりと腰を揺する。
「ヒ、あっ! キリ、コ…ッ、ああ、待っ、」
「待たない。おれに優しくして欲しくなんかないだろ? 酷くして欲しいだろ? そのほうがおまえ、感じるんだもんな。なあセンセ?」
「や、ア!」
「泣き喚け。キモチイイぜ」
ソファから落ちるギリギリまで彼の体を引き寄せて、開かせた太腿を両手で掴み、いきなり、はじめから早いリズムで彼の秘所を攻め立てた。彼は背を仰け反らせ、ちぎれるような悲鳴を上げた。それでも、彼の性器はますます反り返り、先端から粘液を滲み出させている。
半透明に裂けた罅を曝け出し、容赦なく叩き壊してくれる誰かを待つ、悪い癖。
甘い口付けを身体中に降らせて、愛情だとかいうものを恥ずかしげもなく見せ付けて、いたいけな処女を扱うように慎重に抱いたって、おまえは満足しないくせに。
贅沢モノ。
大丈夫、私は心得ている。
蹂躙されたいのならしてやろう。
熱い肌を寄せ、洩れる吐息を交換し、揺れる瞳で蕩けるように見つめ合ったら最後、おまえは傷ついたケダモノのまま私に背を向けて二度と戻らない。
「アア! ん、あッ、やあ…! ああっ」
閉じた瞼からぽろぽろと涙をこぼし、髪を振り乱して彼は叫んだ。彼の熱い肉に突き立てた性器で、彼の弱い部分を強く擦るように刺激しながら、最奥まで穿つ。何度も、何度も、何度も。
彼の指が肩に縋りつきたがっているのは知っていたが、無視をする。彼は彼の手で、あられもなく自分の足を開いていなくてはならない。男に犯されるために。
それくらい屈辱的なほうがいいだろう。
ねえ。
罪悪感など偽りの激情で塗り替えてしまえ。
「キリコ…! 助け、てッ、も…許して!」
「駄目だ。のこのことおれのところに来たおまえが悪い。期待していたんだろう? おれにこうされることを」
「違ッ、う…おれは…アア、おれは、あんた、が」
「おまえのカラダ、悦んでいるじゃないか。やってる最中にくだらねえこと考えてんなよ」
「あ、アアア!」
律動を狂わすように、時々捻じるように突き込んでやると、彼は面白いように敏感に体を跳ねさせた。彼の全てを掌握していると勘違いできる、この長い瞬間は好きだ。まるで身体中の神経が繋がってしまったみたい。
溜め込んだ快感に震え、しなやかな筋肉を浮かばせている二の腕に、肩に、胸に、気紛れに歯を立てる。太腿を握り締めた指に、殆ど痛みに近いくらいの力を込める。いたわりなど微塵もない、むしろ侮蔑に似た、いやらしい台詞を首筋に囁く。強要する。同じような言葉を声にしろと。
そのたびに、彼の絡みつく熱が絞るように性器を締め付けてきた。それを掻き分けるように抉り、残酷なほどに揺さぶった。
たっぷりと時間をかけて、何度も。何度も。何度も。
ああ、これでいい。これでいいだろう。
優しく分かち合うなんてお互いガラじゃないものね。
「は、ア! キリ、コ…! もう…ッ」
「駄目だ。もう少し待て」
「や…!」
後孔を穿たれるだけで、大して触れもしないうちに達しようとする彼の性器の、付け根を強く握って射精を封じる。そのまま、更に大きな振幅で彼の内部を突き上げた。
最早まともな声も出せずに、半ば白目をむいて痙攣する彼を眺めながら、背筋を這い上がる衝動を引き寄せる。ソファが軋む音と、濡れた肉を激しく掻き回す音。向こうが透けるほど薄い膜一枚になって醜態を晒す破廉恥な天使。
私の手に堕ちる。それなのに、決して私のものにはなろうとしない。
駄目だよ。
おまえはいつだって私に夢中じゃないか。そうだろう?
「ブラック・ジャック」
おそらく正気など吹き飛ばしてしまっているだろう彼に、卑怯な駆け引きをする。
「言え。おれじゃなくちゃ駄目だと、言え。いかせて欲しければ」
「ッ、ア…!」
「言え!」
「…た、が…ッ、」
掠れ、震えて、声にならない声で、彼が答えた。勿論、ただの戯言。
「あ…んた、が、…スキ、だ」
「…」
上等。
彼の性器を開放し、最後に限界まで突き上げて、彼の奥深くで精液を吐き出した。同時に彼が、悲鳴さえ出ない唇を戦慄かせ、壊れるほどに身体を仰け反らせながら、体内に埋まる男の肉棒に痛いくらいに食いついて、快感の波に溺れた。
ふらつく彼をバスルームに放り込み、煙草をふかして十分ほど待つ。更にぐったりと疲れ果てて出てきた身体へ適当にバスローブを纏わせ、抱き上げて寝室へ向かった。
「キリコ…下ろせ」
「なんだおまえさん、水浴びたのか? 冷たい」
一応口では抗ったが、彼の身体は僅かに身じろいだだけであとは素直に腕に収まった。昨日から眠っていないのだろうところへもってきて好き勝手に肉体を酷使させられたのだから、余程くたびれたには違いない。
開け放して出て行ったままだった寝室のドアをくぐり、ベッドに下ろしてやるころには、警戒心を忘れた子供のように彼は意識を手放しかけていた。
「眠ってけ。このまま追い出して、家に帰る途中に事故にでも合われたら寝覚めが悪い」
彼の首にかかっていたタオルで軽く濡れた髪を拭いてやり、肩を掴んで少し乱暴にベッドへと横たわらせる。癖のある髪の毛先が飛び跳ねていて可愛らしいと思う。眠たそうな瞼とか、あどけないくらいに無防備な、薄く開いた唇とか。
彼はされるがままに力なくベッドに埋まり、冷えた身体をシーツに潜り込ませた。邪魔そうな長い前髪を掻き分けてやって、身体を起こそうとしたら、不意に、その彼の指が髪に絡み付いてきた。
「……おい?」
「なあ、ドクター・キリコ…」
不審に見やった彼は、もう殆ど焦点もあやしい目つきでこちらを見上げていた。
「おれの言うことを聞いてくれ……。もう、おれの患者は殺さないでくれ……」
「…しつこいな、おまえさん」
腰を屈め、彼に髪を掴ませたまま、答えた。果たしてその言葉がきちんと彼の意識にまで届いているのかどうかは疑問だが。
彼は、掴んだ髪をさらに引き寄せて、呟くように言った。
「おれは厭だ…。おれのせいであんたが人を殺すのは厭だ。おれのせいであんたの手が汚れるのは厭だ……」
「……おまえごときに汚されるようなお綺麗な手はしてねえよ」
光に透ける産毛が見えるほど間近に言葉を交わす。なんて色気のない睦言。髪を掴む彼の手を握ってやっても、いつものように慌てて振り解かれない。
今にも瞼に隠れそうな瞳を覗き込む。ああ、なんて綺麗な赤色。
「おれは厭だ…」ほんの微かに震えた彼の唇が、二人きりの静まりかえった部屋でなければ聞こえないような小さな声で言った。寝言だ。「人殺しをした後のあんたの顔を見るのは厭だ……人殺しをした後のあんたの目が厭だ……」
「いつもと同じだろ」
「嘘だ……だったらどうして……あんなに欠落したみたいな色してるんだ……」
「……いつも欠落してんだよ、おれは」
ゆっくりと、それでもはっきりと彼の指を開かせて絡みついた髪を解く。力の抜けた彼の手をシーツに戻し、身体を離しかけて、しかし思い直してその姿勢のまま彼に訊ねた。
くっきりとした長い睫が、肌に影を落としている。綺麗だと思う。そう思う自分に嫌気がさすくらい。
「キスしていい?」
「ン…」
半分以上は眠りに落ちている彼が洩らした吐息を勝手に許容だと決め付けて、その左の瞼に唇で触れた。薄い、柔らかな皮膚。抉じ開けて眼球を抉り出して食っちまいたい。
すぐに唇を離して、身体を起こした。枕もとに転がっていた時計をベッドサイドに戻し、開け放ったドアへ向かう途中で、夢に沈んだ彼の舌足らずな言葉が聞こえた。
「キリコ……おれの…前から…」
オレノ、前カラ、イナクナラナイデ。
「……おやすみ、ブラック・ジャック先生」
馬鹿を言うな、いなくなるとしたら、おまえのほうだろう。
ドアの隙間に呟いて、廊下に出た。彼の眠りを邪魔しないように、そっとドアを閉める。
薄暗い朝。てのひらに残る誰かの香り。
ああ、なんて救いのない誘惑。
あなたの温度を思い出す、悪い癖。
だらしなくスリッパを引き摺った足をバスルームに向ける。彼に倣って水でも浴びて、くだらない歌でも思い出しながら、飛び切りに濃いコーヒーを入れよう。ベッドは彼に奪われているし、今更寝直す気分でもない。
通りかかったリビングを横目で覗いて時計を見る。09時53分。
きっと目が覚めたら、捨てたほうがいい記憶はものの見事に切り捨てて、彼はまたいつもの如くなんだかんだと説教を垂れるに違いない。しらけたツラで適当なところまでは付き合ってやるのが正しい対処法だ。そして、適当なところまできたら、もううんざりだというような溜息を一つついて、サヨウナラ。
冷たく湿った空気のこもるバスルームに踏み込み、後ろ手にドアを閉める。彼の使ったバスタオルが乱雑に床に落ちている。拾い上げ、洗濯機に放り込んだ。
不可視な何かを欲しがる、悪い癖。
別に今更、敢えてこの関係を崩すほどの馬鹿じゃない。
寝覚めに見た呆れた夢だと思えば、全てを昨夜飲んだアルコールの所為にして、二度とは掘り返せない記憶の片隅に放り込んでしまうことくらいは、容易く出来るだろう。
大丈夫、私は心得ている。
おまえが安心してこの腕にいつでも縋れるように。
思い出さないこと。あっさり忘れること。決して愛していると言わないこと。
簡単だ。私は心得ている。
それから、おまえを、一瞬の後悔を覚える暇もないまま、泥のように眠らせてやること。
(了)