モスグリーンの壁紙、モスグリーンのカーペット。
カーテンも同じ色、まるで透ける海の底みたい。
素肌に真っ白なバスローブ一枚、黒革のソファに独り埋まって、不味そうにブランデーを啜る彼は、見慣れないホテルの部屋でなんだか浮いているような、妙に馴染んでいるような。
真正面に立ち、背を屈めて深い口付けに誘うと、彼は素直に頸を反らせて唇を開いた。
「旨くないのか?」
「なにが」
「酒」
「…あんたの口付けよりはね」
キスの合間、彼は珍しく可愛らしいセリフを吐く。
小生意気なぼうやだこと。
薄い笑みを浮かべた唇を、少し強引に貪る。舌を絡めながら唾液を流し込み、僅かな抗いも髪に差し入れた指で封じれば、他人の体液に喉を鳴らす彼はあっという間に溶け落ちる。
どうすれば彼が行為に夢中になるか、私はよく知っている。
例えば耳の裏側を指先で撫でる。例えば両膝を片脚で割る。それだけで充分。彼はメトロノームを鳴らされた犬のように私のなすがまま、私に言われるがまま。
もっと深く深く、私で刺し貫くには、どうすればいいのか。
もっと確実に、そう、何かに麻痺してしまうまで。
「ん…、ウ」
「もっと上手に舌を使って」
「は…」
差し出された舌を吸い上げ、甘く歯を立ててやる。同じようにしてみろと舌を突き出すと、彼は微かに戸惑ったように、それでもはるかにふしだらに、鼻に抜ける声を洩らして私の舌に噛み付いた。
バスローブ越しに素肌を撫でる。少し強めのほうがいい。
証が欲しいわけではないけれど、この手で、この目で、この唇で、私の全てで。
おまえのこころに刺さりたい。そのためにはどうすればいいのか。
「んん、ん…ッ」
食いつく力を楽しんだあと、更に奥まで舌を這わせて、口腔内を散々舐め回す。歯列をなぞり、舌の裏側を犯し、歯茎を辿る。
人間の味、人間の温度、生々しい人間の欲と、人間の動き。
口蓋を舌先でしつこく擽ってやると、彼はかたかたと震える指先を、私の肩にきつく食い込ませてきた。愛おしいぼうやだこと。飲み込みきれずに彼の顎へ流れた唾液を指先で拭く。
その指を、そのまま下へ滑らせた。
バスローブの上からでも判る、硬く尖った乳首に指の腹で触れる。
「あ、」
濡れた感触に彼は僅かにたじろいだが、構わずにその小さな胸の突起を弄ぶ。摘み上げて先端を爪先で撫でてから、今度は強く押し潰すように。
「アア…ッ」
苦しそうな唇を解放してやると、彼はすっかり快感に酔った喘ぎを洩らした。これだけでおまえはもう私のもの。彼は乳首を愛撫されるのが好きだ、多分、それだけで簡単に達してしまうくらい。
ねえ、いったい何なのだろうね。
まともな会話もなく仕草もなく抱擁もなく、当たり前のように儀式のように繰り返される行為、熱に蕩ける彼を眺め肌を味わい、繋がり合う時間は充分に甘くて濃いけれど。
ねえ、いったいどうしたらいいのか。
おまえはきっと私が好きなのだろう。私はきっとおまえが好きなのだろう。
こうして触れる膜を破ってその内側に私を突き通すには。
「キリコ…、は」
カーペットに膝を付き、バスローブの上から彼の乳首に歯を立てる。もう片方は指先で捏ねる。布越しの刺激に、少しもどかしそうに、彼は私の肩に縋らせた両手に力を込める。
さらりと片手で触れて確かめた彼の股間は、ローブの下、熱く張り詰めて震えていた。たわいもないぼうやだこと。彼の頭の中ではきっと私は悦楽の塊、おまえは確かに私が好きなのだろう、だが、おまえの好きな私はどんな姿をしているか。
ねえ、愛おしいよ。
「キリコ…ッ」
「直接触って欲しいだろう、舐めて、噛んで欲しいだろう?」
「…て、欲し、い」
「おれはおまえが愛おしいよ」
「…れ、も」
甘い蜜には毒が一滴。
バスローブの紐を解き、肩から落として前を大きくはだけさせる。腕に絡まるくらいでちょうどいい。彼は、眩しいライトの下、肌をうっすらと紅く染めて、羞じらいの表情を見せた。色付いた両の乳首と、興奮した性器が私の目の前、お好きにどうぞとさらけ出される。
ならば、突き刺そう。血を湛えた彼の内側、おまえのこころ。
「ん、あ、あ…ッ」
彼は左側の乳首のほうが感じる。
前歯で挟んで、舌先で先端をつつく。乳輪ごと吸い上げながら、きつく噛む。革張りのソファの中、埋まった腰を焦れたように揺らして、彼は切なげな吐息を洩らした。肘掛けを握りしめる両手、骨も崩れて肉も腐ってずるずるに溶けてしまいそう。
ねえ、知っているでしょう。
セックスでしか繋がれない、セックスだけでは物足りない。
言葉が意味を持たないと言うのなら、どうすればいいのか。
暫く唇で彼の胸を嬲ったあと、身体を離し、床に放り出されていた彼の診療鞄に手を伸ばした。
不意に遠のいた体温に不審そうに瞼を上げ、潤んだ瞳で彼が私を見た。
「キリコ」
「何かないかな。ああ、これがいい」診療器具が几帳面に並んでいる鞄を片手で漁る。大したものだ、携帯オペ室だ。「しかも、お誂え向きに、針付きだぜ」
「…」
滅菌済みの針付きステンレスワイヤーを掴み出す。長さは精々三十センチ、太さは一ミリといったところ。あとは何が必要か。ペンチにニッパー、ラテックスグローブ、ついでにアルコール綿のボトル。実に準備がいい。局所麻酔? そんなものは要らない。
床にずらりとそれらを並べた私を見て、彼は不安そうな顔をした。まあ無理もないか。私はアルコール綿のボトルを開けながら、彼が普段最も好む種類の微笑みを浮かべて見せた。解っているのだろう? おまえは私の言うなりだって。
「ピアス入れない?」
「…え」
「完全なおれのオリジナルだ、編んでやるよ、きっと可愛いぜ」
「…なにを…、何、処に」
「ニップル」
「馬鹿…ッ、言うな」
「上手いぜ、心配しなくても」
蓋を開けたボトルを床に戻し、左手にだけグローブを着ける。彼は目をまん丸く見開いて、その私を見ている。可愛らしいぼうやだこと。
「上手いとか…下手とかの問題じゃ、ない」
「じゃあなんの問題」
「誰かに…誰かに見られたら、どうするんだ、…だいたい変だろうそんなの」
「おれにしか見せなければいいでしょ」
「そんなの…娘にも見せられない」
「娘にも見せるな。おれだけに見せろって」
「だけど…」
「ああ、ああ、煩いよ」
「ン…ッ!」
指先で、彼の左の乳首を軽く弾いてやる。彼は咄嗟に色めいた声を上げたあと、その自分を恥じるように、頬を薔薇色に染めきつく目を瞑った。
怯えているはずなのに、乳首は硬く尖ったまま、性器は熱く勃起したまま。彼の知る私は愉悦の塊、私のすることは何もかもが快楽、彼は私のなすがまま、私に言われるがまま。
さあ、刺し貫いてあげよう、私の愛おしい愛おしい人よ。
おまえも私が愛おしいのだろう? 私に突き刺されたいだろう?
ボトルから二、三枚、左手でアルコール綿を取り出し、素手の右手の指を拭く。裏返して乳首を中心に広めに消毒すると、彼の身体がびくりと跳ねた。冷たかったか。
ステンレスワイヤーのパッケージを破る音に、彼が怖々と薄く目を開ける。私が本当にそれを使う気なのか、それとも揶揄っているだけなのか、判断できずに戸惑っている目付き。
「キリコ」
「別に冗談じゃないよ、本気だよ」
「…どうして、…あんたは、」
「厭ならおれを蹴っ飛ばしてでもぶん殴ってでも逃げれば」
「…」
赤い瞳が今にも泣き出しそう。
肌が乾くのを待ってから、グローブを着けた左手の親指と中指で、強く左の乳首を摘んだ。持針器? そんなものは要らない。右手にワイヤーの針の部分を掴み、少し乳輪にかかる位置へと針先をあてがう。
「動くな」
「ヒ…」
時間にしたら多分一瞬、一秒はかけていない。
右から左へ真っ直ぐに、一気に針を突き通した。表皮を破る鈍い抵抗感が、あったかないか、それくらい。
乳首を貫き、刺した逆側の皮膚から突き出た針先を、右手で取り上げ、これも一気にワイヤーの中程まで引っ張る。
「アア…ッ!」
高く鋭く、掠れた悲鳴。
針を通された瞬間、彼は頸を仰け反らせ、ソファの肘掛けに爪を立てて身体を強張らせた。与えられた刺激が痛みなのか悦びなのかも構わない、はしたない性器が触れられもせずに精を吐く。
生温い彼の体液が、バスローブの隙間、私の胸にかかった。
火傷しそうな熱さに思えたが、それも一瞬の錯覚、幾度も触れて馴染んだ彼の体温と同じ。
ねえ、愛おしいよ。
ねえ、おまえのこころに私は。
「…いっちまったの?」
ニッパーでワイヤーから針を落とし、封を切ったパッケージに戻してから、彼の顔を見た。ぎゅっと閉じられていた瞼が、長い睫を震わせて開く、その刹那こそ永遠、或いは、私が本当に刺し貫いてしまいたいものは。
「…痺、れる」
戦慄く唇が呟き、目尻からは透明な滴が一粒頬を転がった。
美しいぼうやだこと。その煌めきを閉じ込めて、世界一綺麗な宝石にしてここに飾ってあげましょう。
左手からグローブを外し、ソファの肘掛けに食い込んだ彼の指にそっと触れる。
ステンレスワイヤーが突き刺さる乳首、一筋の赤い血が肌に伝う。
「痺れる…痛、い、」
「ああ。おれもだよ」
緑色に染まる部屋の中、跪いてその赤い血を啜る私はおかしいか。惨めか、汚れているか。さあ、おまえのその瞳には何が見える。
もっと深く深く、私で刺し貫くには、どうすればいいのか。
もっと確実に、そう、何かに麻痺してしまうまで。
「おれも、胸が痛いよ」
(了)