優しい死神

 掠めるような口付けひとつ。
 多分あの瞬間に、私はあなたの虜になった。

 跪く彼の姿を見た。
 確か秋だ、それがいつの秋だったかは忘れたが。
 駆け付けた病室の、音を立てずに開けたドアの向こう、ベッドの前に片膝を付いた彼がいた。
 両手で亡骸の片方の手を握り、胸に抱いていた。開け放った窓から吹き込む風に揺れる、銀髪の隙間に覗いた瞳は、ただじっと虚空を見ていた。
 例えばそれが祈りを捧げる姿だったら、私はあそこまでは動揺しなかったと思う。
 彼の横顔は祈ることさえ拒否していた。許しを請うことも、悔いることもきっぱりと退けていた。ましてや悼むなんてことも。
 床に跪き、真っ直ぐに伸びた視線には底なしの虚無と諦念と鮮やかな覚悟を映して、薄まる体温を握りしめながら、彼は、その身に全てを受け入れていた。
 優しい死神。
 用意していた行為も言葉も忘れて私は立ち尽くした。その静謐を乱すことは冒涜であるようにすら感じた。
 そうだ、この男ならば、と不意に思った。
 この男ならば、誰の手も届かない場所で膝を抱えて蹲る、この私を。
 それほど長い時間ではなかった。少なくとも、私がドアを開けてからは、数分だったと思う。
 患者の手をシーツの上に戻して、彼がゆっくりと立ち上がった。片手にスーツケースを取り、ドアに身体を向けた。
 呆けたように突っ立っていた私を見ても、彼は驚かなかった。
「大人しいな、ブラック・ジャック先生。いつものように喚いていいんだぜ?」
 硬い靴音を立てて距離を狭めながら彼は言った。咄嗟に頭の中をスキャンしたが、気の利いた罵倒も思い付かずに私は無言で彼を見返した。
 彼は立ち止まりはしなかった。
 ただ、私の横を擦り抜けるそのときに、片手が頬に伸び、唇がごく軽く唇に触れた。
「そんな顔をするなよ…」
 低い声が耳元に聞こえて、そしてそのまま彼は去っていった。
 私は床にみっともなくへたり込んだ。遠のいていく足音さえまともには聞こえなかった。あのときの、身体中の細胞が一気に沸き立つような激しい衝撃と、それのあとから生々しいくらいに色濃く足下から這い上がってきた戦きを、今でも鮮明に覚えている。
 多分あの瞬間に、私はあなたの虜になった。
 終焉を願い、委ねる罪さえ受容するその優しい死神の腕に、壊れるほど強く抱きしめて欲しいと、確かに望んだ。
 誘惑の死の淵に立つあなたの腕に。




 何年経ったかは判らない。
 あのときの彼のように、冷たい死体の手を取って、絶望の色を静かに眺めればいいのか。
 できるか、そんなこと。
 それができれば私はおそらく、端からこんなところにはいない。
「遅かったな、ドクター・キリコ」
 ドアの開く気配に声をかけた。あのときとは立ち位置が逆。振り返らなくとも、知っている煙草の香りで彼だと判った。
 三日待てと彼に言った、その日から今日で三日経ったか。
「もうおまえさんの出番はないぜ。死神の手にかかるまでもなく患者は死んだ。無駄足だったなア、そのうえ三日も待たされたしな」
「…そうか」
「患者も無駄に三日苦しんだ。さっさとおまえさんに渡していればよかったよ。そうすれば楽に死ねたのにな」
「そうか」
「そう思っているんだろう? 嘲うなり怒るなりしろよ、皮肉のひとつも言えよ、結局おれは、必死になってメス振り回したって人間一人助けられやしないのさ」
「そうか」
 淡々と繰り返す彼の声を背中で聞いた。相変わらず何を考えているのだかよく判らない口調だったが、少なくとも冷たくはなかった。全く自分で自分が厭になる。
 罵られる前に晒して、さあ慰めてくれと腹を見せて。
 いつでも巧くかわして、或いは時々気紛れに一瞬だけ撫でて、あっさり彼は去る。その一瞬の気紛れを待つ。例えば彼はこう言う。そいつは残念だ、寿命には敵わない。
 きゃんきゃん喚いてやれば同じだけ救えない言葉を吐くくせに、傷口を突き付ければそれ以上には傷付けない優しい死神。
「言え!」
 開け放った窓に向かって怒鳴る。ああ惨めだ。
 カーテンを揺らして吹き込んだ夕暮れの風が、前髪を梳いて通り過ぎた。そういえばあのときも、跪いた彼の髪が美しく風に靡いていたっけ。
 死人が出ると風が寄ってくるのか。
 彼は何も言わなかった。だが立ち去りもしなかった。衣擦れの音ひとつ立てずにただそこにいた。
 視線を目の前に彷徨わせて、捨てられた子犬みたいに、全身でその気配を読む。移ろう視線の先、両手を付いたベッドに横たわる患者は、息を引き取る間際、最後に私にありがとうと礼を言った。
 ちっともありがたくないじゃないか。早く私を赦してくれ、死神。
「…嫌味を言えよ。いつもみたいにたっぷり毒の効いた、嫌味を言え。言ったら、さっさと帰れ」
 沈黙は冷たくはなかった。それでも歯痒かった。再度声に懇願を隠してせっつくと、彼は、ようやくその口を開いた。
「サーロインステーキと」
「……は?」
「フィレステーキ」唐突に言われた場違いな言葉に、思わず振り向いて見やった彼は、開け放ったドアの枠に凭れてやはり淡々と続けた。「どっちが好き? おれの泊まってるホテルに、取り敢えずその二種類だけはすこぶる旨いレストランが入ってるんだけど」
「…」
「どっちが好き?」
「…」
 メシを食おうと誘っているのか?
 私は多分相当おかしな顔をしたのだろう。泣き出しかけたかもしれない。彼は無表情だったその顔にほんの僅かに笑みを浮かべて、しつこく繰り返した。
「どっち? ブラック・ジャック先生」
「…………フィレ」
 断るという選択肢がない。
 彼はひとつ頷いて、さっさと私に背を向けた。たったそれだけで、私はあっさり赦された。
 怪我をした捨て猫を躊躇いなくその手で拾う優しい死神。
 白衣を脱ぎ捨てて彼の背中を追う。視線をあさっての方向に外したまま差し出される腕、私は、愛情に餓えた子供のように敏感にしがみつく。




 ケーキが好きなの、と彼が言った。
 私はレアチーズケーキを口に入れながら、縦に首を振った。
 レストランに入ってからそれが最初の会話だった。いや、会話とは言わないか。私は声も出していない。
 オードブルをきっちり食ったあと、彼は一ポンドのサーロインステーキをぺろりと平らげた。呆れてしまった。とても大食いには見えないが、人間にはまあ神秘が山ほど隠されているものだ。しかも私がフィレ二百五十グラムを食べ終わるのと同じ速度で。
 ステーキの皿を下げにきた店員が、デザートはケーキとアイスクリームのどちらがいいかと訊ねた。私はケーキと答え、彼はどちらもいらないからコーヒーを早くと言った。
 運ばれてきたチーズケーキにフォークを差す私を、テーブルに両肘をつき、指を組み合わせたその上に顎を乗せて彼は眺めていた。取り立てて表情はなかったが、冷淡でもなかった。もっと言えば、彼にしては珍しく多分穏やかな顔をしていた。
 彼の言葉に頷いて返した私に、彼は少しだけ笑った。焦点をケーキに合わせた視界の上端に、その彼の笑みが見えた。
 レモンの酸味がきいたチーズケーキを飲み込んでから口を開いた。
「普段は泣き喚くんだ」そうやって静かに私を眺めている彼になら言ってもいいような気がした。「患者が死ぬと。机とか壁に当り散らして、一人で馬鹿みたいに泣くんだ。本当におれは見苦しい。だけど、もうどうしようもない、そういう性質だから」
「そうか。別にいいんじゃない」
「おまえさんは泣いたことはないか? 思い通りに行かなくて」
「昔はね。泣いたかもね」
「今は泣かないか」
「泣かないね」
 見事なまでにフラットな声だったが、かえって居心地は良かった。どうすれば私がその足元にじゃれついて、最後には安心してくるりと身体を丸くするか、この男には全部解っているのだとぼんやり思った。
 ケーキの皿を空にすると、コーヒーが運ばれてきた。
 先にテーブルにあった彼のコーヒーはとうに冷めてしまっていただろうと、気が付いたのは殆ど同時にカップを空けたときだった。最後の最後までペースをこちらに合わせ、しかも判らせない。いやらしいほど完璧だ。
 どうも一般的には食後のコーヒーは会話を楽しむ時間らしいが、いっそ生で食いたかっただとか、グアテマラのほうが好きだとか、どうでもいいような言葉だけが時々交換されて、あとは互いに無言だった。まあ商売敵が顔をつき合わせて会話が弾んだらそれはそれで不気味だろう。彼が沈黙を全く苦にしない様子だったので、遠慮なく黙った。それも完璧のうちか。
 席を立った彼がルームナンバーで会計を済ませた。ここは潔く奢られておこうとその横を抜け、何人かの客で少し騒つくホテルのエントランスに向かったそのときに、後ろから腕を掴まれた。
 不意を突かれたものだから、文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。
「泊まっていけば、ブラック・ジャック。もう夜だぜ」
 きっと尻尾を踏まれた座敷犬ほどに目を丸くしていただろう私が、振り向くのを待って彼が言った。
 いい加減に飽きがくるくらい会うたびにまずは口喧嘩をしたし、その流れで私が彼の胸倉を掴んだことは何度かあったが、彼から私に触れてきたのは、思い出せる限りそれが二度目だった。
 一度目はあのとき、立ち竦む私の唇を一瞬だけ盗んだ、あのとき。
「…え」
「おれの部屋ダブルだから。泊まっていけよ」
「…」
「男に抱かれたこと、ある?」
 彼はいつも呆気に取られるほど唐突に物を言う。
 周囲の低い騒めきがその瞬間に意識から消えた。
 思わずぽかんと口を開けて見詰めてしまった彼は、別段おかしなことを言ったつもりもないような顔をして、私を見返した。間違っても熱くはないが、冷たくもないし、冗談を吐いているふうでもない目付き。
「…なに」
「だから、男とセックスしたことは、ある?」
「…なんで」
「誘ってるんだけど」
「…」
 実に判り難い。何を考えているのだか、さっぱり解らない。
 目を見開いてまじまじと見詰めると、彼は私の腕を掴んだまま、長身の身体を少し屈めて顔を近付けてきた。
「男と寝たことが、あるか? ブラック・ジャック先生」
「…………むかし」
 なにも律儀に答える必要もないのに、縮まった視線の距離に圧されるようにして、答えた。
 答えた途端に、周囲の音が耳に蘇った。ぱっと自分が赤面するのが判った。こんな場所で堂々と、いったい何の話をしているんだ。
「経験があるんだったら解るだろ」彼が低い声で間近に言った。それまで全く揺らがなかった淡い色の瞳に、見間違えでなければ、その種類までは判らない微かな感情が過ぎった。「おれが何を言っているか。セックスをしよう、ブラック・ジャック。きっとおれは気持ちいいぜ」
「…どうして…急に…」
「どういうわけか、ケーキを食ってるおまえを見ていたら、欲情しちまった」
「…慰めようと…しているのか?」
「さあね。傷心の先生につけこもうとしてんじゃない?」
「…」
 欲情しちまった、か。
 ああ、天晴れだ。反吐が出るほど完璧だ。
 何もかもを隠す黒い闇の隙間から白い手だけを差し伸べる優しい死神。
 腕を掴まれたまま、操られるようにして小さく頷いた私に、彼は薄らと笑って見せた。なんて甘い男なんだろうと、頭の片隅で殆ど呆れ返った。
 私があなたの虜であることなど、あなたはきっと、とうに知っているはず。
 気紛れに与えられた腕。
 子羊がその血まみれの腕に、焦がれていたことは知らないふり。私はただ無言でしがみつく。流れた血を覆い隠してくれる赤い沼みたいな底なしの虚無へ。





 綺麗にしてきてと彼が言うのでその通りにした。
 おれがやってやるとしつこく言う彼を半分突き飛ばすように振り切って、自分でやる、と言ったのは確かに私だが、なにも使うなと言えばよかったのかと思い付いたのはバスルームを出てからだった。
 馬鹿みたいに広いリビングに戻ると、甘い匂いが漂っていた。
 先にシャワーを使った彼がバスローブを引っ掛けて座ったその前に、どういうわけか焼き立てらしいホットケーキの皿が置いてあった。ルームサービスだろう。
「メープルシロップと、バター、どっちがいい」
 煙草を灰皿に消しながら彼が訊いてきた。私は濡れた髪を指先で後ろに払う動きをやめて、答えた。
「…腹は減ってないが。おまえさん、あれだけ肉喰ってまだ足りないのか。だいたいケーキ食えるのか?」
「誰もケーキを食うとは言ってない」そこで彼ははじめて、ようやくはじめて、病院でもレストランでもただ淡々としていた口調に、面白がっているような響きを含めた。「おれはどっちでもいいよ。メープルシロップと、バター、どっちがいい?」
「…」
 言われている意味が解って、かっと頬に血が上った。
「どっち? ブラック・ジャック先生」
「…そんな…おまえは…だいたい…」
「どっちもいやか。敢えておれに舐めて欲しいってならそれでもいいけど」
「や、やめろ…………メープルシロップ」
「そう、甘いのが好きなんだね」
 シロップの入った細いビンを持ってソファから立つと、彼は私を見詰め、思い切りいやらしくにやりと笑った。まるで化けの皮を剥ぐように。それまでの紳士ヅラをあっさり裏切るように。
 そうか、こういう男か。
 酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせている私に大股で歩み寄り、彼は私の手を取ってその歩幅のまま寝室へ歩いた。私はただ彼に引っ張られていた。手を繋ぐ? 手を繋ぐかここで?
 ライトをつけた寝室に入ってドアを閉め、ベッドのすぐ横まで引き摺られたところで彼の手が離れた。
 枕元にシロップのビンを放り出した彼が、私を振り向き、それからすっと両腕を広げた。
 赤くなったり青くなったりしている私をじっと見て、普段の彼からは想像もつかないような優しい声で、言った。
「おいで、ブラック・ジャック」
「…ッ」
 思わずごくりと喉を鳴らして一歩後退った。優しくおいでと言われて素直に抱き付けるような人間だと思うか、この私が。だから私が怯えないように、無表情で無感情でいてくれたんじゃないのか。
 彼は私の動揺などには少しもつられない目付きをして再度言った。
「おいで、先生。いやじゃないからここにいるんだろう?」
「…おれは、」
「おいでよ。それともいやなのか?」
「…」
 顔を歪め、つい逃げたがる足を精一杯動かして数歩の距離を詰めた。恐る恐る彼の身体に手を伸ばすと、次の瞬間には、息が吸えないくらいの強さでぎゅっと彼の腕に抱きしめられていた。
「あ、っ」
「つかまえた」艶のある声が耳元で囁いた。「おれはずるい。獲物が弱る瞬間を待って、自分のテリトリーに誘い込む。でも、おまえはおれにそうされていやじゃない。そうだろう? ブラック・ジャック先生。おれの腕に抱かれたいと思ったろう? だからついてきたんだろう?」
「…」
「知らないなら教えてやるが、おまえはいつでも身体中でおれを誘惑していたぜ。たとえおれと言い争っている真っ最中でも」
「…」
 そうなのかもしれない。
 骨が軋むほどに強く抱きしめられて、私の身体には一瞬で火がついた。この腕は、他の誰でもない、救われない絶望を知って尚それを許す優しい死神の腕だ。頬に触れる柔らかい髪と身体に染み付いた煙草の香りは、唇を掠めるだけの口付けで私を虜にした男のものだ。
 私を抱きしめている。強く、強く。
 夢ではなくて。
「…ふ、」
 微かな吐息を洩らすと、彼はすっと腕の力を緩めた。それでも片腕で私の身体を抱き寄せたまま、片手で濡れた髪を優しく掴み、上を向かせたその唇に無造作に唇を重ねた。
 そうすることが当たり前のような、あまりに自然な動きだったから、抗うことも躊躇うことも思い付かなかった。そうか、私は今、彼と口付けを交わしているのかとようやく認識したときには既に、彼の生温い舌が私の唇を割っていた。
「ン」
 生々しい感触に肌が騒めいた。膝から崩れそうになる身体を、咄嗟に彼の首に回した腕で支え、ぎゅっと目を閉じて深い口付けを受け入れる。優しく誘われ、彼の舌に自分の舌を触れさせると、途端に少し荒々しいくらいに絡め取られた。
「ウ…」
 ちらりとだけ見せ付けられる男の乱暴さに、ぞくぞくと興奮が湧き上がる。唾液を交換し、促されるように差し出した舌を強く吸い上げられ、私はその念入りな口付けにあっという間に酔った。互いに深く舌を差し込み合い、甘く噛み合い、いやらしい音を立てて絡め合う。
 唇を合わせながら彼は両手で、引き寄せるように力を込めて私の身体を撫で回した。はじめは優しく、ゆっくりとした動きだったが、私の反応を測りながらその手は次第にあからさまになった。
 バスローブの上から強く擦るように背筋の肌を撫でる。同じ軌跡を何度も繰り返されて息が上がる。似たような行為を返そうと思っても身体に力が入らず、私はただ彼の首しがみついてその場に座り込むのを耐えていた。
 決して軽くはないはずなのに、彼は私に体重をかけられても全く揺らがなかった。撫でる両手で時々身体の両脇を掴んで、ずり落ちる私の身体を引き戻した。その力の強さに、ああ、自分は今紛れもなく男と抱き合っているのだと思い知らされて、心地よい屈服感のような、何もかもを手渡してしまいたい隷属感のような、言葉にならない感覚が身体中の神経を末端まで這い伸びた。
 腰のあたりを上下に撫でていた彼の両手が、するりと下がって、尻をぎゅっと握った。
「アッ」
 思わず、重なっていた唇をもぎ放し、身体を引こうとしたが、彼はそれを許さず更に両手に力を込めて私の腰を引き寄せた。
「…っ」
 耳まで火照っているのを隠すように、抱きついた彼の首筋に顔を埋めた。
 ベッドのすぐ横で、明るい照明の下、立ったまま絡み合うみだらな行為。
 抱きしめられ、口付けを交わし、肌を撫でられる、それだけできつく勃起している性器を彼の身体に押し付けるのは恥ずかしかった。それよりも、尻を鷲掴みにされ、擦り合わされた股間に、同じように硬く反応した、バスローブ越しでもはっきりと判る彼の大きな性器を感じて、目が眩んだ。
 私に触れてこの男も興奮しているんだ。
 この硬いものを私に使うと彼は言っているんだ。
「勃っちまった」耳元に掠れた甘ったるい声を吹き込まれて、さっと首筋の肌が逆立つのが判った。「まるで餓えたケダモノだ。一度も抱いたことがない身体に、おれはどうしてこんなに夢中になる?」
「は…」
「おまえも勃っちまったな。おれに触られるのは気持ちいい? もっとたくさん、身体中を隅から隅まで触って欲しいだろう? 大丈夫、おまえが満足するまでたっぷりしてやるよ…」
「キリ、コ」
「おれに夢中になれ」
 尻に食い込んでいた指が力を緩め、てのひらでそっと撫でてから離れた。その手に、彼の首に絡めていた腕を取られ、肩からバスローブを落とされそうになり、咄嗟に抗おうとした身体が力を失った脚のせいで膝から崩れた。
「どうした」
「ま、待て…おれは、おれの、身体」
「見せろよ。大丈夫だから」
「だ、駄目だ…せめ、て、暗く」
「大丈夫だって。ほら、立って」
 彼が手を伸ばして腕を掴み、引っ張り上げた。私はみっともなく足元を縺れさせて立ち上がった。
「キリコ、待っ、」
「大丈夫」
 彼の手はあっという間に私の身体からバスローブを引き剥がした。抵抗する猶予は与えられなかった。私はきつく目を閉じて、逃場のないネズミのように震えながら彼の前に素肌を晒した。縫合の痕が隙間なく走る醜い身体を。
 別に恥じてはいないが、いつでもはじめて誰かと抱き合うときは少しだけ苦しくなる。
 しかも今目の前にいるのは、幾年も焦がれた、男。
 一瞬の沈黙のあと、指先がすっと鳩尾のあたりに残る傷跡を軽く撫でた。驚いた気配もたじろいだ気配も全くなかった。
「むかつくね」唇が瞼に触れ、つられるように目を開けると、僅かに瞳に熱を宿した彼と目が合った。「やべエ、本気で興奮してきた。おれはどうも昔から、セックスに関しては征服欲が強いんだ。倍くらいは痕をつけてやるよ、もうおれ以外の前では裸になれないくらい」
「…」
 その傷跡すら愛しい、などという陳腐なセリフは間違っても腐っても吐かない。
「ああ、そんな顔をするなよ。優しくする余裕が飛ぶぜ」
「…え、も」
「なに」
「おまえ、も、脱げ。…卑怯、者」
 潤んだ目で睨み付ける。彼は私の言葉に、実に楽しそうな笑みを浮かべると、私の肌に這わせていた指を放し、両腕をだらりと身体の脇に垂らした。
「じゃあ、脱がせれば」
「…」
 むしろ私のほうがたじろいだ。
 肌を合わせるために、その身体に抱かれるために、男を裸にするなんてあさましい真似をしろと言う。それでも、ここで彼の言葉に従わなかったら、本当に彼はいつまでも脱がないような気がして、力のない脚でなんとか立ったまま、震える指を彼のバスローブの紐に伸ばした。
 紐の端を引いて結び目を解き、襟に指を這わせて、彼が私にしたように肩から落とした。するりとバスローブが床に落ち、露になった彼の身体に私ははしたなく喉を鳴らした。
 綺麗に筋肉の乗った肩も、胸も、腹も、これから身体を重ねることに躊躇を覚えるくらいに美しかった。それよりも、逞しく勃起した、その性器が。
「気に入った?」
 甘い、低い声で彼が言った。頷けと?
「好きなように触っていいよ。おれはおまえの身体を好きなようにするから。おまえもそうしな、ブラック・ジャック先生。見たいだけ見な。おれはおまえの身体を端から端まで奥の奥まで見るから。おまえもそうしていいよ、おれだけするんじゃ、卑怯なんだろ?」
「…」
 唇を薄く開いた間抜けな表情で、彼の言葉に操られるように、思考も追いつかないまま両手で彼の肌に触れた。滑らかな肌の下にある筋肉を感じながら、胸から腹へ、指先を震わせて撫でる。
 そりゃあそうしてすかして立っていられるだろう。こうも美しい身体なら。
 一歩歩み寄って火照る頬を彼の肩に押し付け、その身体をそっとなぞった。指先が熱い性器に触れ、唇から自覚もなく呻き声が洩れたそのときに、不意に、力なく立っていた身体をひょいと抱き上げられ、無様に目を見開いている隙にベッドの上へ放り出された。





 男に抱かれる快楽を知らないわけではない身体は、過剰に反応した。
 彼は彼の言葉通り、好き放題口付けの跡を残した。首筋から肩へ、肩から胸へ、そこで散々乳首を舐め回し、吸い上げてから、腹へ、太腿へ、膝へ。
 肌を強く吸われる微かな痛みに悦楽を引き出され、私は絶えず唇からはしたない喘ぎを洩らし続けた。彼の手付きはとても優しく、穏やかで、丁寧ではあったが、時折その波を蹴散らすように強引に動いた。
 その強さに私は溺れた。
 閉じようとする膝のすぐ下あたりを掴まれ、乱暴に開かされ、獣が餌に歯を立てるように太腿の内側に噛み付かれたときには泣きさえした。
 彼はどうすれば私の身体が快感に溶けるか、私よりもよく知っているようだった。
 ひとつずつ、確実に、彼は私の正気を潰した。私はあられもなく乱れた。男の前で身体を開く自分を淫乱だと思ったことはないが、或いはとてつもなく淫乱なのかもしれないと頭の隅で思った。
 膝の上に軽く音を立てて口付けを落とした彼が、身体を起こし、仰向けに横たわる私の腕を掴んだ。
 そのままうつ伏せに身体を引っくり返された。止められない喘ぎを低く唇から溢しながら、私は柔らかい枕にしがみつき、そこへ右の頬を押し付けた。
 私の身体を両脇から脚で挟むように跨った彼は、優しく髪を撫でたあと、背中に唇で触れた。
「は…」
 唾液を塗り付けるように、舌先で首筋から肩甲骨の下あたりまでを、ゆっくりと上下に何度も辿る。時々気紛れにきゅっと吸い付く。
 枕に頬を埋めて、そのもどかしい感触に私は喘いだ。声を殺すなんてことはとうに諦めていた。正直に言うならば、私の知る誰かよりも彼は巧みだったし、多分誰よりも私は意地汚く彼を欲していた。
 ひとしきり背中を舐め回してしまうと、彼は私の身体をうつ伏せに寝かせたまま、その横へ添うように身体をシーツに沈めた。左手で頬杖を付き、右手で私の身体を背中から丹念に撫でる。
「いかにも、どうしようもないんですって反応するのな」穏やかに囁かれ、枕に埋まっていない左の目を薄く開くと、色素の薄い彼の瞳と視線が合った。「おまえの身体。おれに触られて、舐められて、もうどうしようもないんですっていう感じで震えている」
「…ウ」
「もうコントロール効かないんです、早くどうにかしてください、もっと狂わせてくださいっていう感じ。たまらないね」
「ん、」
 左の太腿に彼の熱い性器を押し当てられて、同時にさらけ出した尻を彼のてのひらに捏ねるようにじっくりと撫でられた。シーツに擦りつけた性器がつられたように反応し、もうこれ以上は勃起しようもないと思っていたのに、更に硬くなるのを感じた。
「むかし、どんな顔して男に抱かれたのかねえ、先生は」
 彼の指が尻の狭間をゆっくりと辿った。後孔に辿り着き、そこで擽るように柔らかく指先を動かされて、身体がびくんと跳ね上がった。
「あッ」
「ねえ、むかしって、いつ」
 焦らすように軽く上下に擦られて、私はぎゅっと目を瞑った。彼の言葉が聞こえてはいたが、何を訊かれているのか、それが私の返事を期待しているものなのかは判らなかったし、そもそも答えるだけの余裕はなかった。
 柔らかい鳥の羽で弄られているような感触だった。何度も繰り返されるうちに、もっと強く触れて欲しくて、自覚もないまま勝手に私の身体は膝を立て、尻を突き出すような物欲しげな姿勢を取っていた。
 彼はその私の露骨な反応にくすくすと低く笑い声を洩らすと、私の隣に横たわっていた身体を起こし、枕元に放り出してあったメープルシロップの小瓶を取った。
 腰を差し出したその前に陣取った彼の片手で少し乱暴に尻の肉を掴まれ、露わにされた狭間に冷たくとろりとした感触が落ちた。
 途端に寝室に甘ったるい香りが散った。
「や、め…っ」
「なぜ。おまえが選んだんだぜ」
「アア!」
 キャップを外されたままの瓶がベッドサイドに置かれ、そのすぐあとに、ひくつく後孔へ指が触れた。ぬるぬるとシロップを塗り付け、それから微塵の遠慮もない動きで指先が中に侵入してくる。
 思わず高い声を上げ、尻の筋肉を引きつらせてその指を締め付けるが、まさかそれで彼が指を引くわけもなかった。同じ速度のまま根元まで入り込むと、更に奥まで届かせようとするみたいにぐいぐいと突き上げる。
「は、あ…ッ、」
「凄い匂いだ、甘い。酔いそうだ」
「ン…!」
 彼の指がゆっくりと出し入れされ、中まで丹念にシロップを塗り込められているのが判った。耳を塞ぎたくなるような淫らな音が聞こえて、枕を握り締めた手に知らずに力が入る。
 途中でシロップを足され、溢れ出しそうなほどに濡らされたあと、彼の指は二本に増えた。
 狭い場所を広げるように中で蠢き、交互に内壁に指先を立てられてぶるぶると身体が震える。
「あ、ああ」
「触るけど、まだいかないでね」
「ヤ…!」
「まだだよ」
 背中から彼の左腕が伸び、張り詰めきった性器をやんわりと握った。殆ど悲鳴と言ってもいい声を上げたそのときに、後孔に押し込まれていた指が、最も敏感な場所をぐっと強く押してきた。
 それでいくなってのか?
 膝を付いて立てた太腿ががくがくと慄いた。
「は…、キリ、コ…ッ」
「我慢、我慢。せっかくだから最初はおれと一緒にいって」
「…っ、たら…、やく…ッ、」
 性器を緩く掴まれたまま、角度をつけて二本の指にその部分を繰り返し抉られて、勝手に極めたがる快感を必死に堪えた。震える唇で言った言葉は啜り泣くような声のせいで、まともに意味をなさない。
 彼は執拗なまでの時間をかけて、私の後孔を広げた。
 私は身体中の筋肉を引きつらせ、懸命にそれに耐えた。もう無理だ、と思うたびに、後ろから性器を握る彼の指が根元を締め上げ、射精を封じた。それでも、シロップまみれの秘所を穿つ指は動きを止めない。
 傷付けないための配慮なのだか単に弄ばれているのだか、半分飛びかけた意識では判断も付かなくなったころに、左の太腿の裏へ、彼の性器が押し付けられた。
「ア…ッ」
「入れていい?」
 背中に覆い被さるようにして、彼が低く言った。拒むだけの理性などとうに手放した私が何度か頷くと、少し笑い声を洩らしてから、彼の体温が離れた。
 と思ったら、片手に強く腰を掴まれた。
 シロップでべたべたになった場所に彼の性器の先端が触れ、指で開いたその場所を中心に、円を描くように撫で回された。
「ン…」
「力抜いててね。おれのは厄介なサイズだから下手すると切れるぜ」
「ああっ!」
「もっと力抜いて…」
 後孔の周りを刺激していた先端が、ぐっと中心に食い込んだ。掠れた悲鳴を上げた私を宥めるように優しく囁きながら、しかし彼は少しも優しくはない動きで埋め込んできた。
「や…アアッ、ア」
 張り出した先端を食い込まされたときには一瞬気が遠くなった。痛みよりも何よりも、有り得ないほど内側から広げられるその圧迫感に、そしてそれが男の勃起した性器であることに、私の意識は白く乱れた。
 先端を食い込ませてしまうと、そのままずるりと竿の部分まで挿入し、彼はそこで動きを止めた。
 詰まっていた息を喘がせて、私は喉の奥で呻きながら空気を貪った。
「は、あ…、あ…」
「大丈夫?」
 穏やかな声が背中に訊いた。私はがたがたと身体を震わせながら細い声で答えた。
「も…、いっ、ぱい…」
「いっぱいか。困ったね、まだ半分くらいなんだけど」
「え…」
「まあ、ここまで入ればあとは一緒なんじゃない。もうちょっと力抜いててよ」
「やめ…っ」
 今度は両手で腰を掴まれた。無駄だと知ってはいたが、私は咄嗟に逃げようとシーツに付いた膝に力を込めた。
 だったら大丈夫かなんて最初から訊くな!
 勿論それで逃げられるはずもなく、彼は腰を掴んだ両手に更に力を加えると、自分のほうに引き寄せるようにして太い性器を最後まで捻じ込んできた。信じられない深さまで犯され、思わず見開いた目の前に、本当に火花が散った。
「アアア!」
 まさしく、身体の中心を焼けた刃物で刺し通されたような感覚だった。水揚げされた魚みたいに身体を痙攣させながら、これこそがセックスだと言うのなら、私が過去に誰かと抱き合った行為など、セックスじゃない、と思った。
「痛くない?」
 根元まで押し込んでしまうと、その位置でゆっくりと腰を揺らして彼が言った。張り出した先端に奥の更に奥をじりじりと擦られ、私はわけもわからず首を左右に激しく振った。
 痛くありません、ご自由にどうぞ、という意味になるとは思わなかった。
「そう、じゃあちょっと緩めて」彼の低い声は、繋がった場所から身体の内側に響くようだった。「そんなに吸い付いてくれて、おれは気持ちいいけど、おまえが疲れるぜ。動かしたら、これじゃ多分おまえ感じすぎる。おれがいくまでいかさないからね、少し加減して、おまえが我慢できるくらいに」
「…っ、あ」
「我慢して我慢して、それで一緒にいこう。きっと気持ちいいぜ」
「ああっ、は…ア!」
 限界まで入っていた彼の性器が、ずるずると引き出された。目一杯広げられ、薄く過敏になった内壁を擦り上げられる感触に、しがみついた枕を唾液で濡らしながら私は声を上げた。快感という一言で片付けてしまうにはあまりに圧倒的で、そのうえ背徳的な刺激だった。受け入れるべき場所ではない場所で男の欲を受け入れ、あってはならない悦楽に意識を霞ませる。
 ああ、だって私は虜だから。
 ゆっくりと出て行った性器が、今度は勢いよく再度根元まで沈んだ。声を出そうと思ってはいないのに、私の唇からは勝手に悲鳴が撒き散らされた。誰の手も触れていない性器が腹に付くほど起ち上がり、今にも弾けそうに熱く震える。
 彼はしばらくはその速度でじっくりと腰を使った。おそらく私の様子を見ていたのだとは思う。それから、彼が何をどう判断したのだかは知らないが、やおら腰を掴んでいた両手の指を肌にきつく食い込ませ、がっちり固定してしまうと、有無を言わせず激しく内部を穿ちはじめた。
 今までのは遊びだよ、というように。
「ヒ…!」
 最早まともな声も出ずに、私はただ彼に尻を差し出したまま、枕を掴んでいた手でシーツを掻き毟って、泣いた。
 激しい動きに身体が揺れ、立てた膝が崩れそうになるが、腰を掴んだ彼の手と後孔に突き刺された彼の性器のせいで、シーツの上に突っ伏すこともできない。
「どうよ。むかしの男と、どっちがいい」
 内部を抉り上げながら、彼が言った。勿論殆ど声すら出ない私に答えられるはずはなかった。
「…しようがないねえ。おれのことしか思い出せなくなるくらいに、これから何度も抱いてあげるしかないね」
 甘い毒のような艶めいた声で囁くと、彼は答えられない私を罰するように、腰の動きを残酷なまでに大きくした。むかしの男なんて、と私は彼に突き上げられながら、意識の隅でぼんやり思った。
 そんなものはいない。いなかった。
 私が知っているのは手酷い裏切りと、過去の感情さえ葬り去る醜い欲望だけ。
 私は。
 私は、だから。





 彼は全く容赦しなかった。或いは彼としてはそれで加減しているつもりなのかもしれないが、私にはそうは思えなかった。
 抉られ、突かれ、揺すり上げられ、私はだらしなく涙を流しながら、彼の齎す気が狂いそうな、神経が爛れそうな悦楽の海に、抗うことも知らずに身を投じた。
 どれだけの時間そうしていたのかは知らない。
 ただ、私にとってはとてつもなく長い時間だった、それだけは確かだ。
「ああ、わかったよ。そうだね、もういこうか」
 何度目かに限界を訴えた私の、言葉にはなっていない声を聞き取り、彼は優しくそう言って私の性器に手を伸ばした。
 大きな手にぎゅっと握られ、上下に擦り上げられると、必死で抑え込むだけ抑え込んできた絶頂の波が、たちまち身体の奥深くから押し寄せた。
「ああ…ッ」
「ねえ先生、中に出していい?」
 甘ったるい声が背中に聞こえた。私は何を言われているのかもよく判らないまま何度か頷いた。
 いや、つまり、中に出していいかってことか、とその言葉の意味を理解できたときには、遅かった。
 待て、と言うにも自分の身体が待ってくれなかった。性器を擦られるのと同時に後孔を掻き乱すように激しく抉り上げられ、全身の筋肉を軋ませて彼のてのひらに射精した。彼の性器を咥え込んだ部分が引きつるように痙攣し、散々擦られて過敏になった内壁でその形がはっきりと測れるくらいにきつく吸い付くのが判った。
 最後に数度突き上げられ、それから彼の身体が背中に覆い被さってきた。
「…っ、」
 首筋に彼の吐息が触れて、思い切り深く差し込まれた性器が、中にどくどくと精を放った。
「ア」
 高波に溺れる身体へ更に追い討ちをかけるような、鮮やかな快感がざっと肌に広がった。彼が私の身体で達した、それが嬉しいのか、なんてことは半分霧のかかった頭では思い付かなかった。
 互いに肌を重ね合わせて、しばらくはただその波に飲まれていた。殆ど息をすることさえ忘れて、時間の流れさえ無視して。
 充分に解放の快楽に浸ったあと、彼は私から性器を引き抜いた。思わずびくんと反応した身体を、背中に覆い被さっていた彼の両腕がぎゅっと抱きしめ、何をされようとしているのかよく判らないうちにそのままの体勢で横倒しにされた。
「ああ、気持ちよかった」
 咄嗟にもがこうとする私を、宥めるように腕の中に抱き込んで、彼が本当に、全く他意のない声で言った。私は背中から彼に抱きしめられる形で横たえられ、少し動揺した。なんだってこの男はこんなに甘い。
「なかなかないなあ、この気持ちよさは」私が抵抗をやめると、彼は抱きしめる力を緩めて、それでも回した腕はそのまま囁いた。「さあ先生、いっぱい泣き喚いたよな、もう机とか壁とかに当り散らさなくてもいいんじゃない。それともやっぱり一人で泣くか? これじゃちょっと足りなかったかな。いや、大丈夫。今日はもうこれ以上はしないから」
「…」
「ねえ、今日はもうしないけど、またしようね」
「…」
 答えられるか。
 私の呼吸が整うのを待っていたように、彼の片手がふっと身体から離れ、ベッドサイドからティッシュペーパーを数枚掴み取り、とりあえず表面だけは後始末をしてくれた。私は少し身体を強張らせて耐えた。羞恥で顔から火が出そうだったが、抗うのもおかしいのだろう。
「なあ、ブラック・ジャック」汚れたティッシュペーパーを器用に片手で丸めてゴミ箱へ放り投げ、その手を再び私の肌に戻して彼が首筋に言った。「覚えているか? まあ覚えてないか。ずっと前だ、病院で会っただろう」
「…」
 病院で会うなんてことはしょっちゅうあるので、どれのことだか判らない。
 しかしこの匂いには参るな、とベッドサイドのメープルシロップの瓶を示して一言場違いに嘆いてから、彼は言葉を続けた。私はシロップの甘い匂いには慣れてしまったらしく、あまり感じなかった。
「仕事を終えて、帰ろうとしたら、病室のドアを開け放ったまま、おまえが突っ立ってた」
「…」
「いつだったかな、あれ。確か秋だ、いつの秋だったかは忘れたが。風が強くて」
「…、」
 それは、あのときのことだ。私は思わずごくりと喉を鳴らした。
 あのときだ。あなたが跪き、あなたが立ち上がり、あなたが私の唇を盗んだ、あのとき。
 私を虜にした、あのときだ。
 覚えていたのか。
 彼には悟られないように密かに息を詰め、全身の細胞を耳にして彼の声を聞いた。彼は、淡々とした、それでも彼にしては穏やかな口調で言った。
「おまえは、それはそれは素晴らしい表情でおれを見ていたぜ。おれは、何故だかおまえをその場から掻っ攫って、何処か遠い雪の国にでも連れ去っちまいたいと、そんなことを思った。雪にこう、穴掘って、二人で入って、蓋をして、寒くて薄暗い中でじっと丸まっていたいような」
「ど、んな…どんな表情…してたんだ、おれ」
「表現し難いな。ただまあ、そういう顔だ」
「言えよ…どんな顔」
「どんなって言われてもねエ」彼の吐息が首筋に触れ、気紛れな軽い口付けがひとつ落ちた。「なんての? そうだなあ、おれのことを、まるで、優しい死神でも見ちまったような顔で見ていたよ。見なかったことにしておきたがってるような、そのくせ縋り付くような、何かを望むような」
「…おれは、」
「言っておくけど、おれは優しくないぜ。人を殺すんだからな」
「…」
 ウソツキ。
 優しいんだろう。
 だから優しいんだろう。
 私は暖かい彼の腕の中で僅かに身体を固くして、ぼそぼそと言った。先程までの行為でみっともなく喚いたり叫んだりしたせいで、語尾が少し掠れた。
「…そんな顔をするなって、言った」
「んー?」
「おまえはおれに、そんな顔をするなよって、言って、それから…」言いながら、顔に血が上るのが判った。「…おれに、触った」
「ああ。そりゃあ失礼をしたなあ」
 私を抱きしめる腕にぎゅっと力が込められた。触れ合った肌に彼の体温を感じて、何故だか泣き出しそうになった。
 掠めるような口付けひとつ。
 そうだ、あの瞬間に、私はあなたの虜になったんだ。
 彼はそれ以上は何も言わなかった。あのとき私の唇を奪ったことなど忘れたかのように、何も言わなかった。
 でも、彼は覚えている、と思った。
 私が覚えているのと同じくらいに、鮮明に。
 誰にも赦されず、誰に赦されようとも思わず、それなのに誰をも赦す優しい死神は、正体を覗き見られたあのときのことを覚えている。
 何も喋るなという口封じ?
「…ひとつ教えろよ」
 強く抱きしめられたまま、口を開いた。背中から私を抱く彼の顔が見えないことが少し歯痒かったが、だからと言って振り向いて、見詰め合うなんて真似はできない。
「なに」
「…何を考えるんだ?」私の身体に絡みつく彼の腕に手を置いた。それが精一杯だ。「おれは泣き喚く。おまえは、自分が殺した患者の前に跪いて、何を考えるんだ?」
「…」
 今度は彼が黙った。
 かと思ったら私の身体から腕が離れ、いきなり後ろからぐいと肩を引かれた。
「ン…!」
 仰向けにシーツに押し付けられて、私が反射的に抵抗を示すよりも早く、彼の唇が私の唇を塞いだ。思わず少し身じろいだが、彼は構わずに私を押さえ付け、強引に、それでも充分に甘く私の唇を貪った。
 訊くなと言うのか。
 そうか、そうだった。あの静謐は、決して乱してはならないもの。
 あなたがあなたであるために。
「…ん、」
 瞼を閉じ、唇を開いて口付けを受け入れると、彼は私を押さえ込んでいた手を放した。乱暴にしたことを詫びるように、その手でそっと私の髪を梳いた。
 あのときの掠めるような口付けと、多分よく似ていて、多分全然違う。
 ねえ、優しい死神。
 あなたがその血に濡れた腕で私を抱き、私を赦してくれるのなら。

 躊躇う指を伸ばして、私の髪を撫でる彼の手に触れる。指を絡ませて、体温を交換する。
 私は私の全てをかけてあなたを赦そう。
 たとえあなたの瞳が底なしの闇しか見なくても。



(了)