あなたになら殺されてもいいんだ。
だからお願い、私を捨てないで、私を捨てるときは、その手で殺して。
知り合いの刑事から、あの男の死刑が執行されたと聞いた。
ああそう、と答えた。素っ気なく言ったつもりではあるが、それで動揺が押し隠せたのかどうかは知らない。
何故こういうときに、と思う。
コーヒーを二度ひっくり返した。
廊下と居間の境目で躓いたし、整理中だったカルテを五分ほど逆さのまま器用に読んだ。右手でフォークを、左手でナイフを持った。夜になってベッドに潜ればとうに忘れたはずの感触を肌にまざまざと思い出す始末。
何故こういうときに、と思った。
何故こういうときに、傍にいないんだ。
またしようねって言ったくせに。
眠るのは諦めてベッドを抜け出し、深夜に受話器を取った。
三回は番号の途中でやっぱりやめようかと受話器を置き、四回目で漸く呼び出し音を聞いた。
こういう自分の女々しい行動には反吐が出る。でもしようがない。
風の強い日に病院で会って、ホテルのレストランで一緒にステーキを食べて、そのあと初めて彼とセックスをした。それ以来二か月？ 三か月？ 彼からの連絡はないし自分からも連絡していない。たまたま病院で鉢合わせたこともない。
一度寝ただけだ、それだけだ。毎日電話でおやすみと言い合うだとか三日と開けずに逢瀬を重ねるだとか、そんなことをしたい性格では勿論ないし、多分本当にそんなことをしたら鬱陶しくていつか切れる。まさか寂しいなどとは言わないが、それでもこうも放置されると、彼が自分にまるで興味がないことを見せ付けられているような気がして臆病になる。
虜になったのは私。
囚われているのは私だけ。
弱っている捨て猫を通り過ぎざまにちょっと手当てして、手当てしたことさえすぐに忘れる。誰に赦されようとも思っていない、だから何にも拘束されない、そのくせ全てをあっさり許容してしまう彼のことだからまあそんなところか。彼はその腕で誰をも抱くけれど誰を求めもしないわけだ。
でも、またしようねって、言った。
息を詰めて耳に押し当てた受話器からはいつまでも無機質な呼び出し音だけが聞こえた。
留守、もしくは居留守。
これ以上長く待つのも、ましてやかけ直すのも余りに情けないので、溜息ひとつ零して受話器を置き、寝室に戻った。冷えたベッドに滑り込んで目を閉じる。最後の最後に嘘を吐いた男の瞳を瞼の裏で思い出す。
飽きるくらいに見詰めてあなたの視線で塗り替えろ。
飽きるくらいに擦り合わせてあなたの感触で塗り替えろ。
夢なのかただの追憶なのか判らない曖昧な幻覚を見た。結局眠ったのだか眠れなかったのだかよく判らないまま朝が来た。
何故こういうときに、傍にいてくれないんだ。
私を赦してくれないんだ。
優しい死神。
翌日、昼間に電話をかけても彼は電話に出なかった。
夕方も、夜も。
断崖絶壁から身を投げる気分で受話器を取っているというのにつれない。これは日本にはいないのかもしれない。ベッドから立てないような重病で寝込んでいるなんて想像はしたくもない。
三日間眠れない夜が続いてもう限界だよなと思った。
あの男がいつか死刑台にぶら下がることはとうに承知していたはず、その死刑台の前に立たせたのは他の誰でもない自分だ。なのに気を抜くと蘇るのは、あの男が海を渡る前に紡ぎ上げてみせた密度の濃い、暖かくて柔らかい褥、裏切りの瞬間を思い出せばきっと清々するだろうと記憶を引きずり出してみても、ただあのときの一瞬感情が落ちる空虚に再度襲われるだけでかえって馬鹿馬鹿しい。
四日目の朝に仕事へ行くと言って家を出た。
車を乗り付けた彼の家は確かに無人だった。診療所のほうも空、暫く人が寄り付いていないような様子だった。
まあ差し当たりひとり寝込んでいるわけでも死んでいるわけでもなかったことに安心はするが、これでは当分帰ってこないのかと密かに嘆息した。駐車スペースにはセダンが停めてある。ということはちょっと近場へなんてことではないのだろう。
取り敢えず玄関先に座り込んだ。この睡眠不足で仕事をするのはいただけない、ちょうどいいから休ませてくれ。
大陽がゆっくりと真上に移動して、ゆっくりと地平線に沈んでいった。
そう、あなたが私に刻んだ痕は目が眩むくらいに鮮やかで、私を抱きしめた腕は泣きたいくらいに甘かったけれど、何度も注ぎ込まれたあの男のがむしゃらで切実で無謀な欲が、あの男はもうこの世にいないのだという決定的な現実でこの身体に呼び起こされるのを、軽く笑って流すほどになるには、瞬間的すぎた。あっさりと私を手放しすぎた。
傍にいすぎれば鬱陶しくなるだろうなどと思っておきながら、今この瞬間に傍にいてくれとも思う。
なんとも贅沢なものだ。
夜になって、見上げた空に頼りなく細い月が出た。
ぼんやりとただ眺めた。何時間だか判らない。
さすがに夜風に晒された身体が冷えてきて、いつまでこうしているつもりか、いい加減そろそろ家に帰らないとな、となんとなく思ったそのときに、門の向こうに人影が立った。
闇色の気配。
数か月ぶりに目にする長い銀髪が月明かりに煌めいて、それはそれは美しかった。
どうせ帰っては来ないだろうと、こうして玄関先に陣取っておきながら、そういえばなんの言い訳も考えていなかった。なんだか懐かしいような、一時も忘れず恋い焦がれていたような気さえするその空気、待っていたんだとも会いたかったんだとも、ましてや傍にいてくれとも言えずに黙って顰め面をしてみせると、彼は、全く優雅とすら言える足取りで歩み寄ってきて、私の目の前に立った。
さして表情はなかった。ただ、右目を僅かに細めた、それだけ。
空港からか駅からかタクシーでも使ってきたのだとは思うが、片手に銀色のトランクを提げている。仕事か、と思う。
月の光の下で視線が重なって、ああ、おれはこの男にこんなにも会いたかったんだと、勝手に跳ねる鼓動を感じながら他人事のように思った。
「寒いだろう、ブラック・ジャック。震えているぜ」
彼は暫く黙って私を見下ろしたあと、そう言った。間違えたって、どうしてここにいるんだ、とも、いつからここにいるんだ、とも言わない。
甘い男だ。
「寒い、キリコ」
短く答えると、彼は無造作にトランクを置き、両手を私に向かって伸ばした。
「…」
「寒いんだろう？」
「…、」
甘い男だ。
長いこと座り込んでいたせいで強張る足を無理矢理立ち上がらせ、どうしようもなくて彼を睨むように見た。彼は殆ど無表情のまま、まるでそうすることが当たり前のように私の冷えた身体を抱きしめた。
深く彼の香りを吸い込んで、彼の背中へ手を回すこともせずにただその腕の力に酔う。そうだ、そうしていてくれ、そうして私の細胞に染みついた記憶を追い払ってくれ。
腹が減っているだろう、と彼は言った。
長いこと留守にしていたからまともな食い物がない、とも言った。
何処か外へ食べに行こうかと誘われたが断った。じゃあ何か頼むかと訊かれたがそれも要らないと返した。ただおまえがここにいればいいのだと言えれば可愛いのかもしれないが、私がそう言ってみたところで不気味なだけだろうし、無論そんな言葉は口が裂けても言えないし、となるとあれも駄目これも厭と突っぱねてばかり、これほど扱いにくい人間も他にはいないに違いない。
彼はキッチンで何やら十分ばかり音を立ててから、リビングにいた私を呼んだ。
キッチンテーブルの上には白い皿にのったピザ、アルコール類のボトルが数本。
「悪いが冷凍物しかなかった」彼は咥え煙草でボトルのラベルを眺めていた。「おれは外で適当に食っちまった。だからおまえ食え。ウイスキー、ブランデー、ウオッカ、ラム、残念ながら目下の在庫はそれだけだな。何がいい」
「マミー・テーラー」
「ジンジャーエールなんてないぞ」
「水割り」
「おまえには酒に対する追求心がないなア」
彼は二つのグラスにウイスキーを注ぎ、片方に水と氷を入れて私の前に置いた。私の向かいの椅子に座り、もう片方のグラスはそのまま口に運ぶ。
言われてみれば確かに今日は昼も夜も食事をしていなかったので、遠慮なく皿に手を伸ばした。冷凍物だという割にはそのピザは旨かった。チーズが旨いのか。
彼は黙ってグラスを傾けながらピザを食う私を眺めていた。あのときホテルのレストランでレアチーズケーキを食べる私を見ていたのとまるで同じように。それから彼はなんと言ったんだっけ？ そうだ、ケーキを食うおまえを見ていたら、欲情しちまった、と言った。
「本当に食わないのか？ 別に不味くないぞ」
「おれもう食っちまったんだもの。いいから完食しろ、青白い顔をして」
敢えて灰皿に消しはしないけれど煙草の煙を吐くときにはさりげなく横を向く。
気を遣わないふりで気を遣わせたりはしないがきちんと気を遣う。相変わらず嫌味なくらい。
ピザにウイスキーは合わない気がしたが、これがブランデーだってウオッカだって同じことだ。大して味わいもせずにアルコールを摂取しながら殆ど黙々と白い皿を空にして、それから、こうやって留守中に突然押しかけられ、どうしたの、とも、何があったの、とも言わない彼に、言った。
「おれのむかしの男が死んだんだ」
彼は一度だけ右の目をぱちりと瞬かせた。
例えば驚いたり或いは喜んだり、そうでないなら慰めるような表情のひとつもするだろうかとじっと彼の顔を見たが、変化と言えばその瞬きひとつだけで、彼はやはり見ている私が苛々するほどの平坦な眼差しで私を見返した。
「そうか」
冷たくもなければ暖かくもない声。まるであのときと同じ。
「死刑だ」精々いつもの彼の真似をして皮肉に笑ってみたけれど、これではたんに強がっているようにしか見えないだろうなとは思った。「死刑で死んだんだ。暗黒街の皇太子だとかいう間抜けな通り名が付いていた男なんだ、とうとう死刑台にぶら下がったんだとさ」
「そうか」
「奴を死刑にしたのはおれなんだ、おれが証拠を警察に突き出してやったんだ。おれが奴を殺したんだ、しかも、おれがこの手で殺すならともかく、おれの見ていないところで奴が死ぬようにし向けたんだ」
「そうか」
「おれは、おれのむかしの男を殺したんだよ。何度もおれを抱いた男を、おれが殺したんだよ」
「そうか」
淡々と繰り返される相槌。
いつだってこれだ、と思う。言葉を吐くこちらの緊張を実に正確に読みとって、自分の感情などは全く見せもせず彼はただ私が身に溢れさせている言葉を吐き切るまで静かに待つ。ときには傷を抉る残酷なセリフだって、そうでなければ呆れるほどくだらないセリフだって、肌を掻き毟りたくなるくらいに気障ったらしいセリフだって平気で口に出すくせに、聞いてくれと態度で示せばちゃんと聞く。
静かに聞いて、それから、私をあっさり赦す。
「別にいいんじゃない。おまえに殺されるんだったら、別にいいよ」
「…いいもんか」
甘い男だ。
ただ二人くっついて眠った。
一緒に眠ろうと彼は言った。何もしないから、一緒に眠ろうブラック・ジャック、そんなに青白い顔をして。
私は青白い顔をしているのだろうか。三、四日間まともに眠っていないからその所為か。自分ではよく判らない。
暗い寝室のベッドの上、素肌にガウン一枚のどうにでもなる私の身体を、彼は背中から抱きしめて、そして本当に何もしなかった。
雛を守る親鳥みたいなその優しい腕、そんなことくらいで私から数日間の睡眠を奪ったこの記憶、あの男の感触を、視線を、声を振り払えるものか、どうせなら意識を失うまで滅茶苦茶に抱いてくれればいいのにと思ったが、どうしても求める言葉が口から出ず、結局黙って背中で彼の鼓動を聞いているうちに、何故だか私は落ちるように眠っていた。
夢を見た。
漆黒の闇に身を包んだ銀髪の死神が、煌びやかに濁ったあの男の人工的な青い瞳に長い指を差し込み、爪の先で脳髄をゆっくりと掻き回しながら優しく微笑んだ。ああ、そんな微笑みは一度として見たことがない、きっと死にゆくものにしか与えられない微笑みなのだろうと、理のあるなしさえ判らない頭で思ったそのときに、低くて穏やかな声が妙にリアルに耳元で囁いた。
さあ眠りなさい。
それが私に向けられた言葉なのかあの男への言葉なのか、はっきりとはしないままそれでも私は酷く安堵した。こうして無我夢中で生きることをやめてもいいのだ、誰にも眠りは与えられるものだと、優しい死神が言うのだからきっと私もあの男もいつか何処かでは救われるのだ。
薄汚い欲の果て。
目が覚めると朝になっていた。自分がきっちり眠れたことに驚いた。
背中から私を抱く彼の腕は昨夜のまま、彼の体温が、密着した気配が、煙草の香りが、私を眠らせてくれたのだとしたらやはりこの男は恐ろしく甘い。
僅かに身じろぐと、彼の手が宥める手付きで優しくガウンの上から肌を撫でた。一睡もしないで私の眠りを見守っていたように。
「おはよう、ブラック・ジャック。まだ早い、もう少し眠ったら」
「…ッ、」
低い声が聞こえて、それから首筋に小さく音を立てる口付け。
微睡んでいた身体が、意識が、それだけでぱっと覚醒するのが判った。彼は多分全く性的な意味ではなく私に唇を寄せたのだろうが、私の肌に蘇ったのはあの日、初めて彼とセックスをしたあとに、同じように私を背中から抱きしめて同じ場所へ気紛れなキスをした彼の感触だった。
そうだ、またしようねって、あなたあのとき言ったじゃない。
思わずもがくようにして彼の腕から逃れ、ベッドを立った。食欲と睡眠欲を充たされたらあとは性欲なんて、判り易すぎる自分の身体の反応に呆れる。
ああ、それでも、私の身体が今の今思い出したのは、まだ幼いとも言えるころから染み付けられたあの男の手触りではなく、たった一度だけ優しく激しく与えられたあなたの熱。あの、気も狂うような快楽、掠め取る口付けひとつで何年も焦らされ続けた感情さえ蕩けるような。
「シャワーを…シャワーを貸してくれ」
「どうぞ」
彼は私を抱きしめていた腕の片方をベッドサイドに伸ばし、私の欲情には気付かないふりをしてのんびり煙草に火を付けた。私に触れた、薄い唇。目を逸らすように彼に背を向けて寝室を出て、廊下を半ば走るようにバスルームへ飛び込んだ。
胸を押さえて跳ねる心臓を押さえ込む。そうだ、またしようねっておまえあのとき言った。ただ馬鹿みたいに口を開けて待っているしかできないなんて、その言葉に何も答えなかった私がすることじゃない。
隅から隅まで肌が赤くなるくらいに洗って、強迫観念じみていると自分で思うほど丁寧に男に抱かれる準備をしてから、洗面台に並んでいたローションのビンを一本適当に掴んで寝室に戻った。
もうとうにベッドからは起きているかもしれないと思った彼は、そんなはずはないがまるで私を待っていたみたいに、シーツの上で仰向けに目を閉じていた。
初めてホテルの一室で抱き合った日、彼がメープルシロップのビンをそうしたように、枕元にローションを放り出す。
「奴がおれを殺そうとしたんだ」
彼は私の声にゆっくりと瞼を上げた。色素の薄い瞳がまっすぐに私を見た。目を閉じてはいたが眠っていたわけではないようだ。
「むかしの男だ。おれはもしかしたら奴の手にだったら殺されてもよかったかもしれないんだ。それなのに奴は時限爆弾を使ったんだ。何度も抱いたおれを捨てて海を渡って、漸く帰ってきたかと思ったらおれを小汚く利用して、目の届かない場所で、もう一度、捨てたんだ。だからおれも奴を、目の届かない場所で殺したんだ」
「そうか」
「奴がその手でおれを殺すなら、おれは殺されてもよかったかもしれないんだよ」
「そうか」
ベッドのすぐ横でガウンを肩から落とした。カーテンを透かして差し込む朝日に素肌を晒す行為に抵抗を感じなかったわけではないが、あのとき私の身体を余すところなく撫で回した彼の前で今更何を隠すのか。
彼はただその私をじっと見ていた。
「思い出すんだ」中途半端にかかったシーツを引き剥がし、ガウン一枚の彼の身体に素っ裸で馬乗りになる。「おれが殺したはずなのに、奴を思い出すんだ。死んだと聞かなければよかったなんて卑怯なことを考えるくらいに思い出すんだ。一人じゃ眠れないほど蝕まれているんだ。厭なんだ。少なくとも今、おれを虜にしているのは、あの男じゃない」
「そうか」
「おまえのことしか思い出せなくなるくらいに、何度も抱いてやるって、言ったよな。またしようねって、おまえ、言ったよな」
「そうだね」
「おれはおまえのことなら思い出してもいい。セックスしようぜ、キリコ」
シーツに両手を付いて彼の顔を覗き込んだ。濡れた髪から滴が落ちて、彼の頬を濡らした。
自分の吐いた言葉に羞恥と興奮を掻き立てられて無様に唇が震える。
彼は暫く無言で私を見詰めていた。指一本動かそうとはしなかった。そうか、厭なのか、あんなセリフはただの嘘だらけの睦言で、昨日私を抱きしめた腕は誰にでも与えられる彼の腐るほどの生温さ、もういい、ここで厭だと言われたら彼の目の前で自分一人でやってやろう、それだって充分あの男の記憶を薄めるには足りる屈辱だと半ば自棄になって思ったそのときに、彼が漸く、笑った。
思い切りいやらしく、はしたなく、鎖で繋がれた奴隷でも見るみたいな目付きをして。
突然場面を切り替えたように、それまでの紳士ヅラは綺麗に忘れて。
「いいよ。おれとセックスしよう、先生」
「…」
薄い唇に噛み付いた。
ああ、おれはこんなにもこの男に餓えていたのかと、唇が触れ合った瞬間の戦きに攫われる意識の片隅で他人事のように思った。
知っている煙草の味。
みっともなく縺れる指で紐を解き、はだけさせたガウンの下に現れた彼の素肌へ自分の身体を擦り付けながら唇を貪った。性急に舌を差し入れて口蓋を舐め回し、甘く噛まれて喉の奥で呻く。
「ン、」
私の舌から吸った唾液を、喉を鳴らして彼が飲み込んだ。まるで全てを奪われ、全てを剥き出しにされ、汚らしい部分まで全てを愛されているかのような錯覚に鳥肌が立った。
むかしの男だって？ 馬鹿馬鹿しい、裏切られるだとか裏切るだとか、罪深き命をその両手に数え切れないほど抱えた死神に私は何をして欲しいと言うのか。痛みに酔うだけの郷愁など彼の前では薄呆けた幻影、この佇む銀色の闇、底なしの闇こそが私に、そして誰にも与えられる最後の赦し、私の受ける罰など取るに足らないもの。
ただ抱き合えばいいんだ。
肌と粘膜と体液を混ぜ合わせて溺れればいいんだ。だってそれしかできないんだ。
あなたの感触が私の肌を埋め尽くすまで。
「は…、」
「こうも言わなかったっけ？」与え合うというより奪い合う口付けの合間に、彼が低い声で囁いた。「おれはどうも昔から、セックスに関しては征服欲が強いんだって。むかしの男むかしの男と散々惚気てくれちまって、馬鹿だよねえ、先生。先に断っておくけど誘ったのはおまえだからな」
「…」
「優しくできなくても文句言うなよ」
「…別にいい」
角度を変えて再度口付ける。
好きなだけ舌を絡め、唾液を啜ってから唇を彼の身体に移した。肩の筋肉を噛み、胸に押し付けた頬で心臓の音を聞き、腹に赤い跡を残す。こうして男の身体に取り縋る私は彼の目にはどのように映るのだろうか、男の肌を舐め、興奮して呼吸を乱している私は浅ましく見えるだろうかと思いはしたけれど、私がどれだけ彼を欲していたか、今欲しているかを言葉で示すことができないのだからこのくらいしてもいいと思った。
まだ完全には勃起していない彼の性器に手を伸ばした。それでも充分に大きすぎるそれに勝手に喉が鳴った。あのとき私を埋め尽くし、何度も突き上げては半狂乱な悦楽に叩き落とした凶暴な肉、確かにこれで私は彼と繋がったはずだが、こんなに厄介なサイズのものがよくもまあ入ったものだと正直恐ろしくなりさえする。
シーツの上へ横たわったままの彼の顔を見た。彼はその私を平然と見返すと、にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、僅かに舌を見せて唇を舐めた。
躊躇った私を促すように。
そうだ、そんな表情ひとつで私を跪かせるのは、昔だって今だって、あなたしかいないんだ。
ひとつの愛撫さえされていないのに彼に触れているだけで火照る身体の位置を、下にずらし、彼の股間に顔を埋めた。雄の匂いに喘ぎながら舌を差し出し、とてもではないが咥えられはしない性器の先端に触れた。
抱いてくれとは言わなかった。セックスしようと言ったのだ。早く私の興奮に追い付け。
右手で竿の部分を擦りながら先端の滑らかな皮膚を舐め回し、吸い付いた。私の手の中で彼の性器はゆっくりと硬さを増し、ますます凶暴な有様を示した。傘と茎の境目を丹念に舌で擦り上げてから、その茎の太さを確かめるように顔を傾けて上下に唇を這わせ、時々歯を立てる。
「ふ…、」
男の性器に噛み付いたまま、我慢できずに自分の下肢へ左手を伸ばした。軽く握って二、三度刺激し、彼のものに押し当てた唇から喘ぎを洩らしたそのときに、不意に身体を起こした彼の大きな手に腕を掴まれ、あ、と思っているうちに乱暴な動作で身体を仰向けにシーツの上へ押し倒された。
ホテルの柔らかいダブルベッド、メープルシロップの香りに酔いながら身体を合わせたときとは較べものにもならない強引さで、彼は私に触れた。
あの夜彼は優しかったのだ。本当に優しく丁重に私を扱ったのだ。ゆっくりと与え、私が彼の肌に慣れるまで待ち、全てを私のタイミングに合わせた。僅かに見せ付けられた手荒な動作すらきちんと計算された愛撫、貫かれたときの衝撃があまりに大きかったからよく判らなかったけれど。
乱暴にされて初めて判るなんて間が抜けている。
彼は獣が獲物を食らうみたいに私を貪った。身体を入れ替えるようにしてシーツに放り出された瞬間から、私は彼に捧げられた供物だった。
身体中に噛み付かれて泣いた。肌に散らされた歯形に血を滲ませ、幾度も彼のてのひらに達した。あのとき私の絶頂を遮った彼の行為さえ、あれは私に優しくしたのだと、私の負担を減らすためだったのだと、自分の吐き出した精液を肌に擦り付けられ、息も絶え絶えに組み敷かれて漸く判った。彼ならばその両手で私に触れるだけでいとも簡単に私を廃人にできる。
両脚を掲げられ、さらけ出された尻の狭間に、私がバスルームから盗んできたローションをぶちまけられた。
「脚、自分で押さえて、先生。できるだろ？ 言うこと聞かないとこのまま入れちまうよ」
「あ…、」
シーツを握りしめて固まっていた指を引き剥がし、膝を胸に抱えるようにして自分の脚を押さえた。カーテンを通して柔らかく朝日の差し込む寝室、彼の香りが染みついたベッドの上、それがどれだけはしたない格好になっているのか理解するだけの余裕は何処にもなかった。
ただ私は彼に従うだけだ。
そう、それでも、この獣じみた強引さを、何もかもを滅茶苦茶に打ち壊す嵐のようなセックスを、私が欲していたことは確かだった。あの男の感触をしつこく残す肌を、どうかそのまま食いちぎってくれ、湧き出る血を啜ってくれと、肉に食い込む歯の痛みに、その痛みが齎すどうしようもない悦楽に涙を零しながら、私は確かに望んだ。或いは私が口に出したのか、噛んでくれ、もっと強く噛んでくれ、と。
その私の欲を彼が充たそうとしているだけなのならば、やはりこの男は甘いのだ。
「イヤ…あ、ああッ」
「厭？ じゃないでしょ、おれに抱かれるために、中まで綺麗に洗ってきたんじゃないの」
彼は最初から私の後孔に二本の指を突き立てた。押さえた自分の脚に爪を立て、思わず泣き声を洩らした私には構わずぐっと強引に押し込み、迷いもせずいきなり指先で弱点を弄った。
残酷なまでの拡張感と直接的な鋭い快感に、身体の芯が焼け焦げて落ちる。
「酷エな。おまえ、おれの歯形だらけ」ぐちゃぐちゃと音を立てて私の内部で指を蠢かせながら、声に少し笑みを含ませて彼が言った。「そのうえ、精液まみれだ。何処の誰にどうやって犯されればこれだけ救いようのない姿になるのかねえ。で、こんなにされて、おまえは抵抗するどころか、おれに従順に尻を差し出して、ペニスを勃たせて、泣いて悦んでる」
「キ…リコ…ッ」
「ああ、ああ、解っているよ。むかしの男とやらを、思い出せるものなら思い出してみろよ。悪いが身代わりにはなってやらないけどなあ、それどころかお仕置きするけどな」
「ア…」
身代わり？ 違う、そんなふうには思わない。
あなたの肌が触れていれば私はくだらない過去など忘れるんだ、あなたの視線は他の誰よりも強く私を射抜くんだ、あなただけになるんだ、だから、もっと、もっと。
暫く指を使って、存分に私のそこを濡らしたあと、彼はゆっくりと指を引き抜いた。呼吸が整う間もなく、ローションを塗した太い性器の先端をあてがわれる。
「は、」
ざっと身体にあの夜の、気が違うような快楽が蘇った。先程唇で触れた彼の熱さと硬さ、大きさへの怯えと、たった一夜で教え込まれたその快楽への予感に、拒めばいいのか求めればいいのか、混乱を来した私の身体はただびくんと震えただけだった。
彼は無言のまま、強引に、全く無造作に、性器を私の後孔へ捩じ込んだ。
私の咄嗟の混乱を彼が判らなかったはずはないが、意に介する様子など少しも見せなかった。一度の動きでは入りきらない凶器じみたものを、固い地中へ太い杭を打ち込むように腰を使って、一気に根元まで押し入れた。
「アアア！」
自分の身体がどんな形をしているかさえ一瞬判らなくなった。自覚もない悲鳴を上げ、私はただ突き刺さる熱い肉を飲み込んだ。尻を犯されていると言うより、精神もろとも私の存在自体を犯されているような気がした。そのあまりに圧倒的な感覚、押し広げ埋め込まれ塞がれる異様なまでの激しい感覚は、抱くとか抱かれるとかセックスとかレイプとか、そんな単純な言葉で示すことができるほど生温いものではなかった。少なくとも、私がその言葉で認識していた行為とは次元が違かった。
鮮烈な記憶すら実際にこうして引き裂かれる衝撃とはまるで別のものだった。
ましてや、むかしの男なんて。
そうだ、初めて彼と交わったあの夜も、そう思ったではないか。これこそをセックスというのなら、私が過去に誰かと肌を合わせた行為など、セックスじゃない、と。
そうだ、はじめから判っていたはずではないか。私が思い出していたのは、私を呵んだのは、本当は、裏切られ裏切った痛みでも、ましてやかつては愛し合った過去でもない、あの男を私が殺したという罪悪感を受け入れられない無様な足掻き、その傷をいつまでも舐めていたいという自己陶酔だ。
殺されてもよかっただって？ ふざけるな、誰を相手にしてそんな戯言を吐く。
私を今内側から焼いているのは、死神。
優しい死神だ。
「呼べよ」
深く突き刺した腰を揺すって、彼が言った。
「呼んでみろよ、むかしの男とやらの、名前を。おまえを殺そうとして、逆に殺された、幸せな男の名前だよ」
「…久、部」
「なに？」
「間、久部…ッ」
無理矢理絞り出すと、その途端に、ぱん、と音を立てて頬を叩かれた。
痛みは感じなかったがその彼の行為に驚いて、きつく閉じていた瞼を思わずぱっと見開くと、熱を宿した薄い色の瞳と視線が合った。いつだって感情の読めない冷めた顔、彼のそんな目付きは殆ど見たことがない。
「…」
「忘れろ。忘れたいんだよな？ 思い出したくないんだよな？」
「…ア、キリコ、待て…ッ」
「おれに夢中になれ。おれに犯されて、おれに狂え」
「ああっ、や…あ、あ！」
彼は私が自ら抱えた脚に手をかけて更に強く押さえ付け、一切手加減せず、いきなりはじめから激しく腰を使った。息が詰まるような体勢で抵抗するどころか身動きもできない私は、再度目をぎゅっと瞑り、自分の脚から離した両手でシーツを掻き毟りながら、掠れた声を上げて彼にされるがままになるしかなかった。
木製のベッドがぎしぎしと微かな音を立てた。
「ン…は、あ、…キ、リコ…ッ」
指で施され、ぐずぐずに熟れた内部を抉り上げられるあってはならない快楽、受け入れるべきではない場所で男の欲望を受け入れ、私の身体ははしたなく反応する。
ああ、そうだ、もう正しいも間違いもどうでもいいのだ、執着と欲と嘘と、汚らしい泥沼に男と沈んで殺し合った私はもうとうに歪に崩れて腐っている。あの男が私に何かを残したとすれば、それはこの斜めに捩れた景色と欠落の先にある熱くて冷たい感情、或いは、正しいも間違いもどうでもいい、ただ欲しいものは欲しいのだと、偽りでも温もりを分け合う幼稚なまでの、長い一瞬で終わった、愛。
さようなら。
「キリコ…ッ、も…いく…、」
信じられないほどの奥まで繰り返し突かれ、かと思ったらその位置で腰を回すように内部をぐるりと刺激されて、私は耐えきれずに泣き声を上げた。彼はその私の声に応えて掴んだ右脚を肩に抱えると、私を深く揺すり上げながら低く言った。
「いいよ、いけよ、いっぱいいきな。自分で擦れ、できるだろ」
「アア…ッ」
「そうだ、上手だ。何度でも、好きなだけ、いけよ」
「ア、 アア、ア！」
襲い来る渦は強烈で、熱く、終わりがなかった。
男の性器に後ろを穿たれながら自分の性器を擦るなんて真似、浅ましい、とは思ったけれど、だからといってどうにもならなかった。とにかくこの切羽詰まった肉体を解放しなくては頭がおかしくなる。
右手に性器を握りしめて、何度目かももう判りはしない絶頂に、溺れた。全身の筋肉を突っ張らせ、限界まで広げられた後孔で太い異物を絞り上げながら精を吐く。
根元まで完全に押し込み、彼はがくがくと痙攣する私を少し待った。だが、渦が消えるまでは待たなかった。
優しくしないと言った彼に、別にいい、と答えたのは確かに私だが。
絶頂が引かないうちに、意思とは無関係に締め上げる肉壁を掻き散らすように強く腰を使われて、私は喚いた。自分でも耳を覆いたくなるほどの、とんでもない声が出た。片方は胸に付くくらいに折り曲げられ、片方は彼の肩に高く抱えられた脚の、両方のつま先までが強張り震えが走る。
「やめ…、キリコ…ッ、無、理…っ」
「大丈夫だよ、おまえ、慣れてるから」戦慄く唇で必死に声にした私の言葉などは聞き入れる素振りもなく、ぎゅっと竦む後孔を突きながら彼は淡々と言った。「おまえの身体、なにしたって悦ぶじゃない。むかしの男とやらに、ずいぶんとまあ念入りに可愛がられたんだろうなあ？」
「こ…んな、の、は、ない…、ない…ッ」
「ないわけないでしょ、なけりゃこんなに悦ばないでしょ。おれはおれの気が済むまでやるんだ、言っとくけどね、誘ったのはおまえだぜ。おれはおまえにメシを食わせて抱きしめて眠らせて、そのままにっこり笑っておまえを放してやることだってできたのに」
「アアッ！」
頂点の快楽が少しも弛まない身体のまま、繰り返される抽送に気が触れる。
激しく肌をぶつけ合う、その行為だけが、彼の感触だけが全てになる。
ああ、そうだ。翻弄され陵辱され、私は手放しで泣き叫んだ。
ああ、そうだ、こうして欲しかったんだ、優しい彼の手で残酷に堕として欲しかったんだ。この身体に刻んで欲しかったんだ、もっと深く、もっと手荒く、もっと、もっと。
私をあなたの底なしの絶望に沈めてくれ。
無様な足掻きも傷を舐める陶酔も、歪んだ景色も偽りの愛も、全て塗り潰してくれ、ただもうあなたの前に何もかもをさらけ出して、それを素足で蹴り散らかされるような狂った恍惚を、私に教えてくれ、それ以外のものなど私から奪ってくれ、あなたしか見えない世界でどうか私の息の根を止めてくれ。
何度か意識が飛びかけた。
そのたびに軽く頬を張られ、呼び戻された。
初めて抱き合った夜、彼は一度私と同時に極めて、あとは優しく私をあやしただけだった。昨日の夜だって、誘われれば食いつくように身体を開いただろう私を、悪夢から守るみたいに抱き寄せてただ眠らせてくれた。
この執拗な、乱暴なまでの行為も、私がそうして欲しいと思ったからこそなのか。
気が済むまでやると言った。その言葉も、私がそう言って欲しいと思ったからこそか。
懺悔を聞いて欲しいと思えば彼は静かに聞く。抱いて欲しいと思えば抱く。青白い顔をしてみせれば私に休息を与え、壊してくれと願えば私を壊す。
ねえ、それならばあなたの欲は何処にあるのだろう。私の奥深くに注がれる熱い体液、肌を震わせるその感触は確かに現実だけれど、そこにあなたの欲は本当にあるのか、その欲は本物なのか、あの夜私を抱いて気持ちよかったと彼は囁いたが彼がつまり何をしたのかといえば、私をその腕で存分に泣かせてくれただけなのだ。
完璧すぎて、見えない。
なんて贅沢なんだろう、あの男の欲に傷付いておいて、彼の欲が見えないとなると見たくなる。私が彼を欲するように彼も私を欲してくれればいいと思う。私が彼の家の玄関で朝から晩まで座り込んだみたいに、彼が私を求めることなどこの先あるのだろうか、やはりあり得ないだろうか、私が例えば姿を消せば甘い彼のことだから、何事もなかった顔をして、赦して忘れるのだろうか。
ああ、それだけは厭だ、忘れ去られるくらいならばいっそ殺してくれ、私はあなたになら殺されてもいいんだ。
あなたの目に映れないなら私を殺してくれ。私を捨てるくらいならば私を殺してからにしてくれ。
あなたになら殺されてもいいんだ。
だからお願い、私を捨てないで、私を捨てるときは、その手で殺して。
優しい死神。
意識を手放すこともできずにベッドの上で散々絡み合って、まともには歩けない身体をバスルームに引っ張り込まれた。ひんやりとしたタイルの壁に両手を付かされ、がたがたと震える足で爪先立ったまま、後ろから挿入された。
叫びすぎて痛む喉から悲鳴をまき散らし、反響するその声に誘われて射精した。昂ったまま一度も着地できない肉体は、しつこく惨たらしく与えられる彼の熱にひたすら過敏に反応した。もういい加減に精液だってカラだ、涙も尽きた、もう無理だ。
「アア、アッ」
指を立てて腰を掴んだ手で、殆ど私の身体を持ち上げるようにして、彼は私の中に達した。三度目？ 四度目？ ああもう判らない。擦られすぎて血を噴きそうな内部の壁がぞくぞくと震え、繋がった部分から溢れた精液が太腿の裏に伝った。
もう無理だ、もう判らない、もう私の肌はあなたしか感じない。
あなたが全てだ。
その場に崩れそうになる身体をひょいと抱き上げられ、湯を溜めたバスタブに放り込まれた。目を開けると向かい合うように彼が入ってくるのが見えて、私は思わず狭いバスタブの中でじりじりと後ろへ逃げた。
「も…、無理だ、本当、に、無理だ」
唇から洩らした声は、怯えたみたいに掠れていた。
彼はその私をじっと見詰めたあと、両手を伸ばして湯の中で私の太腿を掴んだ。彼の脚の上に跨る形で引き寄せられ、抗うにも抗えず、私は喉の奥で呻いて彼の手に従った。
静まりきらない性器が触れ合って、びくんと背筋が跳ねた。
「呼べよ」
実際にはどれくらい時間が経ったのかは知らないが、過ぎた時間があまりにも濃密すぎて、これで二度目になるその命令が最初に発せられたのはずいぶんと前だったように思えた。
「むかしの男とやらの名前を、呼べよ、ブラック・ジャック先生。おまえの身体をこんなにも淫乱にしてくださった男の名前だよ」
「…」
「おかげでいい思いさせてもらってるから、おれも礼を言わなけりゃなあ。ほら、呼んでみろ、先生。おまえが殺されてもいいと思った男の名前だよ、忘れちゃいないだろう？」
「…まえ、だけだ」
彼の肩にしがみついたまま、喘ぐように言った。視界の下に映る彼の背には、いつ、どの体位で組み伏せられているときに付けたのかも覚えていない私の爪の痕が、くっきりと赤く残っていた。
「なに？」
「…おれを、こんなに、インランに、するのは、おまえだけだ。おれを、殺していいのも、おまえ、だけだ」
「へえ、可愛いこと言うのね。でもどうせ、おれが手を離したらすぐにまた、むかしの男を恋しがって、夜も眠れなくなるんじゃないの。殺した男を今更思い出してもしようがないのにね」
「…おれは、おまえしか、思い出さない。おまえだけだ…もう、おまえ、だけだ」
「信用ならないよなあ」髪を引いて私の顔を肩から上げさせ、間近に瞳を覗き込んできながら、彼が薄らと笑った。「じゃあ、誓え。おれが全てだと、誓え。おまえの身体も、アタマも、おれ以外の奴には好きにさせないと、誓え。おまえを好きにできるのは、おまえに必要なのは、おれだけだ。おれがいればいいんだ。おれがいれば、それでいいと、誓え。何処にいようと何をしていようと、おまえには、おれがいる」
「…」
甘い男だ。
ああ、甘い男だ、腐って蕩けるくらい。
視界が歪み、ぽろぽろとみっともなく涙が頬に落ちた。あれだけ泣き喚いておきながら、まだ涙が出るか。いつになったら枯れるのか。
私の欲しがるものを、この男は躊躇いもなく私に与える。どんな行為でも、どんな言葉でも。
赦してくれと願えば赦す。
縋るものがないのだと、あなただけしかいないのだと、手を伸ばせば腕を差し出す。
誰にでもそうしてみせるのだろうか。彷徨う魂を引き受けて、全身を血で染め上げ罪と罰を無表情に被るおまえこそが自由な咎人、穢れた美しい銀色を翻し、底なしの絶望を宿した瞳に映るものは、ただ何処までも続く絶対的な闇、光の一筋もない境界線上でちぎれたタイトロープ。
堕ちる欠片を拾い上げてはその手を泥で濡らし、唯一の望みを叶えてはくれるけれど。
それならばあなたは何も望まないのか。
何も求めはしないのか。
薄汚れた欲と裏切り、唯一の嘘、あの男の最後の凶悪な甘えは私の写し鏡だった。
ねえ、あなたが全てだ、私に必要なのはあなただけだ、あなたがいればいいんだ、私にはあなたがいるんだ。
そう誓ってもいいと言う、あなたは、本当に甘い男。
ねえ、けれど、あなたには、私はいないのでしょう。
私があなたを赦したいと祈っても、あなたは、私は要らないのでしょう。
傍にいてくれと言えばあなたはきっと傍にいる。それなのに、あなたが私に傍にいてくれと言うことは決してない。
消えてくれと言えばあっさり消えるんだ、微かに唇だけで笑って、私に背を向けて、そしてもう二度と振り向かない。
「そんな顔をして泣くなよ…取って食っちまうぜ」
彼の片手が頬に伸び、少し乱暴にてのひらで涙を拭いた。そのままその手は湯に沈み、つい今の今まで彼の太い性器を思うさま咥え込まされていた、じんじんと痛いくらいに火照る後孔に触れた。
「ア…ッ」
「やべエなあ、おれってこんなに意地汚かったっけ」指を私の中に押し入れながら、く、く、と低く声に出して彼は笑った。「おさまらねえの。なあ、ブラック・ジャック、余計なこと考えてないで、さっさとおれの言うなりになれよ。誓え、おれがいればそれだけでいいと、誓え。あんまり聞き分けがないと、続きをやっちまうよ、おまえがハイ御主人様としか喋れなくなるまでぐちゃぐちゃに」
「ン、」
指先を曲げて、彼は私の尻から溜め込んだ精液を丁寧に掻き出した。ぬるぬると異物が出入りする感触、二本の長い指を内部で広げられ、体温よりも熱い湯に侵され目が眩む。
あなたは私を求めない。
ああ、それでもいいか。それでも私はあなたがいいか。
だって私はあなたの虜。
いつまでたっても跳ね返らない願い、それでもその先に佇むのは、不透明な原色を重ね合わせた黒、吸い込むだけ吸い込んで吐き出されないホワイトホール、私を赦し私を癒し私を眠らせてくれる、優しい死神。
それでもいいよ、私は勝手におまえを赦すから。
世界中の誰もが赦さなくても私だけは私の全てを懸けて。
潤んだ肉を擦られ喘ぐ唇で、答えた。我ながら反吐が出るような女々しいセリフだ。
「誓う、から、おれを、捨てるな…。捨てるときは、殺せ」
彼は右目を一度ぱちりと瞬かせた。むかしの男が死んだと言ったときと同じように。
それからその目を細めて私を、足下に絡み付く猫でも眺めるように暫く見詰めたあと、髪を掴んだ片手に僅かに力を込めて、私の唇に口付けた。
後孔に差し込まれた指は、綺麗に後始末をしてしまうと、あっさり抜かれた。
腰を抱き寄せられて、触れ合った肌は熱かった。
「わかったよ」つい先程まで泣き叫ぶ私を組み伏せ、乱暴なまでに蹂躙していた男とは思えないくらいに甘ったるく唇を吸う合間に、彼が囁いた。「捨てるくらいなら殺してあげるよ。ちゃんとおれのこの手で殺してやるよ。間違ってもおまえが生き延びちまわないように、おまえがおれを殺さなくて済むように、確実に殺してやるよ。おれは死神だからな、人殺しは得意だ」
「ふ…、」
「だから、安心しな。安心して、眠れ、おまえには、おれがいる」
ああ、本当に、甘い男だ。気味が悪いほど。
生温い唾液を交わし、痺れる舌を差し出して絡め合う。唇が溶けるような長い口付けのあと、濡れた目を見られたくなくて彼の肩に両腕でしがみついた。
力無く崩れた身体を預け、顔を埋めた耳元に言う。
情けなく震えた声、あの夜の彼が囁いたようにはいかないが。
「…また、しようね、キリコ」
彼は私の首筋で少し笑って、凭れかかる私の身体を優しく抱きしめた。
（了）