患者を取られた。
まあいつものことだ。それはそれで別にいい。
一度は死を望んだ患者が彼のオペを受けることで生きる気になったなら、それでいい。その後社会復帰をするまでにどれほどの苦労が必要なのか、そもそも社会復帰などできるのかは知らないが、それでも生きる気になったなら、いい。精々生きろ。
気にくわないのは方法だ。
彼は、明け方、私の家から帰るとき、ポストから一通のエアメールを抜いていった。
気付いたが、放っておいた。彼が何か言ってくるのではないかと思って。
しかし彼は何も言わずに、日本を発った。
患者本人が依頼を取り消す短い電話を寄越した。私は、彼が私には無断で、私の依頼者のオペをしたのだと、その電話で知った。
気にくわない。
渡せと言えばいいじゃないか。
その患者、治りそうだから、渡せ、と。
勿論そう言われたところで、私が素直に従うとは限らないが。
患者から連絡があって、三日か、四日。
帰国した頃を見計らって彼の家に電話をかけた。
「今夜の十二時に行く。準備して、いい子で待ってな」
『…』
回線の向こうで、彼が息を飲んだのが判った。すぐ近くに聞こえる子供のはしゃぎ声。
遠い異国から漸く我が家に帰り、娘を足に纏わり付かせながら、私の声を聞くのは、さて、どんな気分か。
「言い返さないってことは、身に覚えがあるんだろう？ お仕置きだよ。ドアの鍵、開けておきな」
言い捨てて一方的に電話を切る。こういう言い方をすれば彼は逆らわない。逆らえない。
彼は多分自分自身に暗示をかけているのだと、そう思う。
同じ鋭利な線上で、生きる誰かの腕を待つ。それが私？ 笑わせる。他に適当な人間が見付かれば彼は私になど目もくれずにそちらへ向かって走り出すだろう。
最後に同じラインに立っているのは、私しかいないと思っている。無意識に、そう自分に暗示をかけている。
だから彼は私に、抗いはしても、歯向かいはしても、争いはしても、手を伸ばせば決して本気では逆らわない。
やめろとは言っても、厭だとは言わない。
怖いのだ、捨てられることが。
ぬるい場所では生きてはいけない。液体窒素のように冷たい、あるいは煮えたぎった熱湯のように熱い水でないと泳げない、けれど一人でもいられない。
笑わせる。人間なんて誰だって一人だろうが。
彼は私に逆らわない。
それなのに、私の後ろに引こうとはしない。きっと抜こうとも思っていないし、違うラインも選ばない。まるで運命の恋にでも落ちてしまったみたいに、どれほど傷だらけになっても泥だらけになっても、その傷、その泥を付けるのが私であっても、必死で私の傍にいる。
暗示が解けるまでは。
他の誰かが見付かるまでは。
私が彼に本気で溺れるまでは。
笑っちまう。所詮私は場繋ぎ、私は都合のよい彼の影で、都合のよい支配者。抱きしめ撫でられると終わりを予感して恐怖する臆病な彼には、ちょうどいい頃合いの敵対者、恋人、御主人様、その他諸々。
彼が見ているのは私であって私でない。
彼が求めているのは私であって私でない。
それでもいい。ああ、大笑いだ、彼は私に逆らわない。
甚だしい勘違い。
深夜、車を乗り付けた海辺の家は、リビングにだけまだ電気を灯していた。ほらね、逃げることもできない、おまえ。
車の中で煙草を一本吸って数分の時間を潰し、十二時ちょうどにドアを開ける。私が言った通り、鍵はかかっていなかった。素晴らしい、実に素直で従順な、奴隷のふりをしてみせる。
囚われているのは果たして誰か。
リビングに向かうと、彼がこちらに背中を見せて立っていた。車の音で私が来たことはとうに知っていたはず、テーブルの上に一応大判の本が広げてはあったが、多分目に映るだけで読めてはいないだろう。
その後ろ姿だけで、彼の緊張が手に取るように判る。背中を目にして、精一杯深夜の訪問者の挙動を見詰めている。
立ち止まらずにすぐ後ろまで歩み寄る。どこかにある架空のちっぽけな国の帝王みたいに、無遠慮に。
「どうして服を着ているんだ？ ブラック・ジャック。お仕置きだって言ったじゃない。準備はしたの？ ちゃんと裸で寝転がって足を開いて待ってろよ」
「…怒っているのか？」
「怒っていないと思うのか？」
「…」
彼は私に背を向けたまま、俯いて黙った。その腕を掴み、少し乱暴に振り向かせる。
覗き込んだ彼の顔には、大事に飼っていたウサギを過食の末に殺してしまったような、いかにも哀しそうな、僅かに苦しそうな表情が、隠しきれずに浮かんでいた。馬鹿だよな、と頭の隅で思う。
そういう顔をするから、虐めたくなるんじゃないの。
「言い訳を聞いてやろう」腕を掴んだ指に力を込め、顔を間近に寄せて囁いた。「どうしておれのうちのポストから、勝手にエアメールを盗んだわけ？ お行儀が悪いね」
「…治せない患者だったら、手紙は返そうとは思った」
「へえ」
「…治ると思ったから、行ったんだ」
「どうしておれに言わなかった？」
吐息が触れ、彼の長い睫が微かに震えた。それでも、彼は頑ななまでに、視線を合わせようとしない。
時々全て計算なのではないかとすら思うことがある。嗜虐を唆す、その行為のひとつひとつ。
厭だと言わない彼に、厭だと言わせるには、どうすればいい。
「こういう真似をされたと知って、おれがおまえを笑って許すと思ってたわけじゃないんだろう？」
「…」
「まさかばれないと思ってたわけでもないだろう？」
「…」
言い訳はしない、か。
気の利いたやつならばこんなときは何と言うのだろう。あんたの手が汚れるのを見たくなかったんだ、とか、あんたに言えばあんたが厭な思いをすると思ったんだ、とか、或いは、あんたの気を惹きたくて、わざと怒らせるようなことをしたんだ、とか。
彼は何も言わない。気にくわない。
片手をリボンタイに伸ばし、軽く力を込めて引き抜いた。
「ッ、」
「せっかく聞いてやるって言ってんのに、そうか、ブラック・ジャック先生は、そんなことはどうでもいいから早くお仕置きをして欲しいんだな」
そのいきなりの私の動作に、ぎょっとして彼が身体を強張らせている隙に、さっさとシャツのボタンを外してしまう。そこで漸く視線が咬み合う。
綺麗な赤い瞳。綺麗な、綺麗な。
シャツをはだけられ、どうしたらいいのか判らないと言うように彼は目を見開いて私を見ていたが、ベルトに手をかけるとさすがに抗った。
「キリコ…よせ…」
「渡せと言えばよかったじゃないか。おれはもしかしたら、はいどうぞと言って、三秒後には忘れたかもしれない。そうしなかったってことは、おれに忘れられたくなかったってことだろう？」
「キリコ…ッ」
「珍しく優しく抱いてやった次の朝の裏切りだぜ？ つまりおまえは、優しくされるより酷くされたいってわけだよな」
「違、う」
手首を掴んで動きを制そうとしてくる彼に構わず、ベルトを弛め、下着ごと服を引き下ろす。テーブルの上へ強引に座らせて、剥ぎ取る。
彼は私の胸を拳で叩き、膝のあたりを蹴り上げ、抵抗した。やりたいようにやらせながら、半ば無理矢理、暴れる彼を全裸にした。
男を強姦する気分というのはこういうものか、とどうでもいいことをちらりと思う。
「厭だって、言えばいい」
普段は娘と一緒に食事をし、新聞を読み、コーヒーを飲むテーブルで、今は私の目の前、隠す術もなく身体をさらけ出しているのは、さて、どんな気分か。
激しく抗う所為で胸を喘がせている彼の腕を掴み、その耳元へ唇を近付けて優しく言った。
「厭だって、言えよ。そんなちゃちな抵抗じゃなくて、真剣に逆らえ。厭だと言え」
「私は、」
「よせとかやめろとか、そんな可愛いこと言ってないで、おれに触れられるのは厭だと、言え。そうすればおれはこのままおまえを解放して、そしてもう二度と、おまえに、触れない。おまえのことなど永遠に、綺麗さっぱり忘れてやる」
「…」
強張っていた彼の腕から、すっと力が抜けた。
ほら、おまえは私に、逆らえない。
実に愉快だ。
手付きを愛撫に変えて、彼の肌に指を滑らせると、それでも彼は健気に、私の胸に両手を付いて身体を押しのけようとした。
「駄目だ…駄目だ、キリコ」
彼の肌は清潔な石鹸の匂いがした。髪はシャンプーの香り。まあ言われた通り準備はしていたのか。
「なぜ。厭なのか？」
「そうじゃ…なくて、ここでは、ここでは駄目だ。子供が寝てるから…」
「寝てるならいいじゃない。どうせなら隣のベッドでやる？」
「馬鹿言うな…」
長い前髪の隙間に覗く、俯いた彼の表情が歪んだ。それを確認して身体を離した。
抗ってはみたものの、私がそう簡単に引くとは思っていなかったのだろう、少し拍子抜けしたように彼は顔を上げて私を見た。その彼に背を向けて、大股で五歩、ハンガーに掛けてあった彼のコートを手に取る。
全裸の彼に適当に着せかけ、それから、腰を掴んで右の肩に担ぎ上げた。
軽いというわけでもないが、彼は、決して重くはない。抱き上げられるだけでもいつでも必死になって抵抗するのに、まるで荷物のように担がれて、彼はばたばたと暴れた。
「キリコッ、下ろせ…！」
「あーあ、騒ぐな騒ぐな」リビングを出て玄関に向かいながら、潜めはしない声で言った。「あんまりぎゃあぎゃあ喚くとそれこそ子供が起きるぜ。おれがお優しくも場所を変えてやろうとしてるんだから、むしろ礼を言え。しかもこのコート、またどうせメスだの何だの仕込んでるんじゃないの？ 暴れると刺さるぞ」
「…ッ、」
「あんまり手間をかけさせると、ここでやっちまうよ、おまえが泣き叫ぶような手酷いお仕置き」
私のその言葉に、彼の抵抗がぱたりとやんだ。
背中に彼の低い唸り声が聞こえた。
子供に気付かれるのはそんなに困るか、まあそれはそうだ。男に抱かれている姿を娘に見られるくらいなら彼は舌を噛んで死ぬだろう。
身体を固くしている彼を肩に担いだまま、玄関を出る。彼の靴？ そんなものはいらない、できるだけ、屈辱的なほうがいい。
全裸の上にコート一枚、裸足。先程襟から引き抜き盗んできたリボンタイで、両手首を後ろ手に縛る。
彼は血が滲むほど唇を噛んで、助手席でその身体を強張らせていた。さあ、どんな気分？
少しは後悔するのだろうか、ポストからエアメールを盗んだ自分の行動を。本当に私に最後まで気付かれないと思っていたのなら、彼はきっとそんな真似はしない。そう思っていたのなら、むしろきちんと私と私の依頼者との間に姿を見せる。いつだってそうだった。
どうして何も言わなかった？
気にくわない。
わざと二車線の道路を選び、右側の車線に車を入れる。アクセルは大して踏まずに、左手を彼の身体に伸ばす。
コートを大きくはだけて、素肌を撫でる。乳首が硬くなるまで指先で捏ね回し、乱れ始める彼の呼吸を聞きながら、肋骨と肋骨の間に爪を立て、臍を擽る。
彼は噛み締めていた唇を開き、僅かに掠れた声で言った。
「キリコ…やめろ。見られる…」
「見せてんだよ。素っ裸にコート一枚で男に弄くられてる姿を見られるのは、楽しいだろう？」
真横、左車線に空のタクシーが並んだ。彼は咄嗟に顔を背け、ぎゅっと目を閉じた。
ぴったりスピードを合わせて走る。タクシーの運転手が右側にくっついた車に注意を払うかどうかなんてことはどうでもいい、見られている、と彼が感じれば。
脇腹をしつこく撫でてから、ゆっくりと指先を性器に向ける。鋭く息を吸い込んで、その手から逃れようとしても、狭い助手席で手首を拘束されている彼には身じろぐくらいしかできない。
その手首を縛るリボンタイだって、本気で厭だと思えば、力を込めれば、ちぎれるだろう。彼は甘んじて受け入れている。
逆らわない。逆らえない。
緩く握った性器は、素肌に指を這わせられて、既に浅ましく反応していた。低く声を出して笑ってみせた。
「勃ってるよ、ブラック・ジャック」
「言、うな…」
「ほら、見られてるぜ、隣。男だ。おまえをじろじろ見てる。そんなふうに恥ずかしがってないで、顔も見せてやれば？ おれに触られて、とっても気持ちいいんですっていう顔をさ」
「…ア、」
「変態。見られて悦ぶなんて、どっかおかしいんじゃない？」
軽く擦ってやると、彼の唇から短い喘ぎが洩れた。これも彼の自己暗示なのだろうと思う。いつでもそう思う。
私に触れられると嬉しい、と彼は自分に暗示をかけている。
彼岸との境目を駆け抜けるその場所で、唯一傍にあれる人間に、生々しく汚らしい部分まで掻き分けられることは、快楽だ、と。
甚だしい勘違い。
屈辱も羞恥も苦痛さえも悦楽に塗り替えて、私の手で肉体に火を付ける。好意よりも愛情よりも、ただ金と、命と、そこにある汚穢、見える原色の光景を同じ色で見る誰かの視線を欲しがる。その誰かに刻まれる傷と擦り付けられる泥が、優しく与えられる安寧より、遙かにシャープな生きる手触り。
勘違いだよ。
いつになったら気付く？ おまえは私など求めていないのだと。
おまえが求めているのは私であって私でないのだと。
「おいおい、隣、おまえをエサにマス掻き出しそうだぜ。なんなら誘ってやろうか、お仕置きにはそれも楽しいんじゃない、おれの目の前で知らない男に犯されるってのもいいだろう？」
「馬…鹿な、こと…ッ」
「ああ、そうだったなあ、おまえはおれじゃなくっちゃ駄目なんだったな、おれの太いモノじゃなくちゃ満足しないよな」
「んッ」
両脚の間に深く手を突っ込んで、尻の谷間を撫でてやると、面白いように彼の身体が跳ねた。
私に慣れた淫らな肌。そう暗示された、容易く堕ちる肉体。
片手で、言葉で嬲り、暫く二車線を流してから、横道に逸れ、次第に細くなる車道でアクセルを踏み込んだ。周囲の人家が失せ、砂利道になったところでスピードを緩め、地面から伸びる背の高い木々に濃く囲まれた公園に車をつける。
サイドブレーキを引いてエンジンを切ると、彼は少し怯えたような目付きで私を見た。私の家、多分予想はそうだったのだろうが、全く違う場所に連れてこられて戸惑っている。
構わずに運転席を降り、助手席側に回った。
ドアを開けて手を伸ばすと、人見知りをする臆病な猫のように、彼は思わずといった感じで身を引いた。
「怖がるなよ。別に喚き散らして助けを呼んでもいいが、このあたり、周りに家もないからねえ、誰も聞いちゃくれないだろうね。夜中の公園に人がいるとも思えないし」
「こんな…場所で、あんた」
「ほら、ちゃんと掴まる。あんまり手間をかけると、その姿で何処かの街中に放り出すぜ」
「…」
後ろ手に縛っていたリボンタイを解き、彼の両腕を自分の首に縋らせた。彼はそれでも躊躇するように助手席のシートへ背中を貼り付かせていたが、片腕で腰を引き寄せて身体を抱え上げると、落っことされてはたまらないと咄嗟に腕に力を込めてしがみついてきた。
彼を抱える腕とは反対の手で、車のドアを閉め、施錠する。
「自…分、で、」
「歩くって？ 靴も履いてないのに？ こんなところ歩けないよ」
「…んた、が、」
「靴を履かせなかったんだろうって？ そうだよ、逃げられないように」
灯りの一つもない、月明かりだけに照らされた公園を奥へと歩く。鬱蒼と茂る木々が低く騒めいて少々薄気味悪い。
車を停めた公園の脇から数分か。芝生の植えられた広場を通り越し、ルートを外れて暗く立ち並ぶ木々の間に踏み込む。小さな丘のように地面が盛り上がった場所で立ち止まり、その真ん中に聳える太い木の前で彼の身体を下ろした。多分ニレ科の落葉樹。
月の光を浴びて、彼は、石造りの冷たい半地下室にでも放り込まれたみたいな、不安そうな、それでもそれを押し隠すような表情をして見せた。馬鹿だよな、と頭の隅で思った。
ほらまた。そういう顔をするから、虐めたくなるんじゃないの。
内側に数本入っていたメスと剪刀は抜いたコートは着せたまま、木の幹に彼の背中を押し付け、ちょうどいい高さで左右に伸びる枝に両手を縛り付けた。片方は彼の、片方は私のタイ。
思い切り力を込めれば、簡単かどうかは知らないが、こんなヤワな拘束は引きちぎれる。
彼は勿論引きちぎりはしない。彼にとっては鎖で繋がれるよりも強固だ、それが私の手のなす拘束ならば。
逆らわない。
厭だと言わない。
その暗示を解くにはどうすればいいのか。
「足を開いて立て。もう少し、肩幅くらい」
「…」
「いい子だから言われた通りにしろよ、どうせ最後までは逆らえないんだから。それとも無理矢理されるほうが好きか」
「…、」
眉を顰めて従う彼の目の前に、自分のコートから取り出したチューブを見せた。
「電極用のペースト。商売道具だ、害はない」
「…ウ、」
指に取り、十字架に掲げられる形で両腕を縛られ、脚を開いて立つ彼の後孔に塗り付けた。やや乱暴に中指を突き立てると、彼は身体を震わせて、小さく呻いた。
私を見詰める赤い瞳が揺れる。
綺麗な。綺麗な。
野外で、木に縛られて、指で犯されて、厭だと言わない。
「力を抜け。おれに散々抱かれて、もう知っているはずじゃないの、上手に咥えてみろよ」
「あ、」
「もう一本。ほら、入れるよ」
「…ク、」
大して慣らしもせずに、二本の指を根本まで押し込んだ。きつく締め付けてくる抵抗を強引に掻き散らす。
それでも、つい先程まで車の助手席でしつこく愛撫され、昂らされていた彼の身体は、その強引さにすら反応した。何度か出し入れしたあと、深い位置で指先を曲げて軽く揺すってやると、慣れた肉壁がいやらしく絡み付いてきた。
片手で触れた性器はすぐに車内のときよりも硬く、熱く勃起した。
「ああ…っ」
「ほんと、サイアクだね、おまえの身体。こんな場所で、こんなふうにされて、こんなふうになっちまうの。救いようがないね」
「ン…、言う、な…ッ」
「優しく抱いたりして悪かったよ、物足りなかったんだよな、だからあんな真似したんだよな。これからはいつでも酷くしてやるから、おまえが何もイタズラをしなくたってお仕置きしてやるから、あんまり行儀の悪い真似はするな」
「違、う…！」
性器をやんわりと握りながら突き上げる。穿つスピードを速めてやると、彼は太い木の幹に反らせた背を擦り付け、切れ切れに声を上げて喘いだ。座り込むこともできず、裸足で剥き出しの土に立った脚を引きつらせ。
どうしてやればよかったんだろう、と思う。
狂った旋律に満ちるその先端の世界で、無表情な顔にぎらぎらと赤い瞳だけを光らせて、辿り着けない場所に向かって夢中で走る彼を、私は、どうしてやればよかったんだろう。
初めて出会った瞬間から、この腕で慈しんでやればよかったか。彼が私に気が付くより早く、背中から抱きしめてやればよかったか。
牙を剥かれても爪を立てられても構わずに。そんなものは要らないと全身で叫ぶ声にも構わずに。
できるか。私はヒトゴロシだ。
振り向けば間違いだらけの乱れた足跡。後悔なんてしないけれど。
残ったものは、逆らえないおまえと、愛せない私。
甚だしい勘違い。
「ア…、キリコ…ッ」
「気持ちいい？ 夜の公園だぜ、ここ。おまえはほんとうに、はしたないな」
敏感な部分に狙いを付けてぐいぐいと刺激してやる。彼は食い込む指をぎゅっと締め付け、私の名を呼びながら腰を揺らした。もっとして欲しいのか、やめて欲しいのか。
もっとして欲しいに決まっているだろ。
彼の喘ぎが啜り泣きに変わるまで、充分に後孔へ指を使った。声が一際色を帯び、性器が解放を求めて震えた、そのときに両手を離した。
中途半端に放り出され、滾る熱に肌を赤く染めた彼が、薄らと目を開けるのを待って唇の端で笑いかける。
「はしたないおまえに、面白いものを食わせてやろう」
コートの内側に片手を差し込み、数粒握って取り出す。
彼がぎょっとしたように目を見開いた。見覚えはあるはずだ。先程彼の家のリビングで、棚の上から失敬してきた子供の玩具。
色とりどりのガラス玉。
なんて言うんだっけ。ビー玉？
「…な…に」
「おまえの家にあった。娘の大事な宝物かねえ？ ちょっとくらい貰っても、パパが気持ちよくなるんだから、文句もないだろ」
「そんな…やめ、ろ…」
「やめろと言われてやめてたら、お仕置きにならないじゃない」
「駄、目だ…、こんな…、」
「可愛い子供の玩具で犯されるってのは、どんな気分？」
片手を、コートの内側、脇から彼の尻に回し、ガラス玉を握った片手は開いた両脚の間に突っ込んだ。彼はがたがたと震え、掠れた声で拒んだが、できたのはそこまでだった。
本気を出せばその腕は自由になるのだ。私を殴って、やめさせればいい。
厭がれ。厭だと、言え。
「ア…！」
「ほら。上手ですねエ」
ペーストを塗り込められ、散々指で開かされた彼の後孔は、簡単にそのガラス玉を飲み込んだ。冷たく丸い違和感に、びくんと身体を跳ねさせる彼の、尻の肉を片手で鷲掴んで狭間を広げ、もうひとつ。更にもうひとつ。
「あ、あ、」
埋め込まれるガラス玉が増えるたびに、彼は引きつれるような、悲痛な声を上げた。厭だろう、そう思う。多分彼の娘が彼の前で無邪気に遊ぶ玩具。厭なのだろう。
それでも、彼の性器は硬く勃ったままだった。それどころか、ますます興奮する様子を見せた。
大したものだ、その被虐の暗示。
震える彼の耳元に唇を寄せ、低く笑い声を聞かせてから、穏やかに吹き込む。
「さあ、ブラック・ジャック。いくつ入れてあげようか？」
十粒を、少し超すくらい。
取り敢えず一掴み彼の家のリビングから盗んできたガラス玉を全て押し込んでしまうと、彼は身体中の肌に汗を滲ませて、ぎゅっと目を瞑ったまま哀願した。
「あ…、キリコ…出して、くれ…。きつ、い…」
「きつい？ 全然だろ？ いつもおれのペニス突っ込まれて悦んでるおまえが、これくらいできついわけないだろ？」
「ふ…、ウ」
「だいたい、そんなふうにみっともなく勃たせといて、きついもなにもありゃしない。いいか、落とすなよ、落としたら酷くするぜ」
言いながら、彼のコートから抜いて地面に放り出しておいたメスの一本を、拾い上げた。
取り出したライターの炎で、刃先を炙る。何処で何に使ったかも知れない、ディスポーザブルでない医療用具は、だから面倒なのだ。まさか男を木に縛っておいてのんびり煮沸消毒もできない。いや、案外それも楽しいのかもしれないが。
かちり、というライターの音に薄く瞼を上げた彼が、私の手にしているメスを見て、大きく目を見開いた。
「な…に、を」
「心配するなよ、おれだって素人じゃない。まあ、暗いし、手が滑るってことはあるかもしれないが」
「やめろ…なに…考えて、んだ」
「おまえも理解が悪いなあ、何度言わせる？ やめろと言われてやめてたら、お仕置きじゃないだろ」
炙ったメスを軽く振って熱を散らせ、自分の肌に刃先を当てて温度を確かめてから、一歩踏み出して距離を詰める。左手で顎を掴み、晒させた首の薄い皮膚に刃先の背の部分を押し付けると、彼は身体を強張らせてごくりと喉を鳴らした。
「…ッ」
「殺さないって」ゆっくりと下に向かって肌の上を滑らせながら、幼子に言い聞かせるように言う。「だから、大人しくしてな、子供の玩具を飲み込んだままな。動くとざっくりいっちまうぜ。こいつの切れ味はおれよりおまえのほうがよく知ってるんじゃないの？」
「…リ、コ」
「怯える姿が見たいんだ。厭がる姿が見たいんだ。精々恐がれ、おれにいたぶられるのは、もう厭だと、言え」
「…は、」
顎を掴んでいた手を放しても、彼は固まってしまったように身動き一つしなかった。まあできなかったのか。
胸骨の上をまっすぐ刃先で辿りながら、その手を彼の股間に伸ばす。さすがに萎えてもいいだろうと思ったのに、彼の性器は、相変わらず硬く張りつめたまま。
つい喉の奥から笑いが洩れた。軽く擦ってやると、彼は見開いていた目を閉じ、眉を寄せて喘いだ。
「アア、」
「サイアクだサイアクだとは思っていたが、これほどサイアクだとは思わなかったよ。ここまでされて、それでもまだ興奮してんの」
「ん、」
「おまえは多分、おれになら、腹を開かれても腸を引きずり出されても、ペニスを勃てて気持ち良さそうに泣くんだろうよ」
「あ！」
メスの刃を立て、さっと横に引いた。皮膚のほんの表面が、切れるか切れないか程度。
血は滲まなかったが、月明かりの下で判る赤い線が肌に残った。目を閉じたまま見てはいない彼には、切られたと思えたかもしれない。
最後に強く握ってから性器を掴んでいた手を開き、今度は彼の右の乳首を摘んだ。指先で引っ張って、乳輪ごと切り取るように、メスの先端に少し力を入れて引っ掻く。
「んん、ア、」
濡れた声を洩らして、彼が少し身悶えた。
「動くなよ。ほんとうに刺さっちまうぜ」
「ハ…ア」
「それとも、刺さっちまったほうが嬉しいか」
「アッ」
乳首を摘む指に力を入れ、爪を立ててやると、彼がびくんと派手に身体を跳ねさせた。与えられた不意の刺激に無駄に力が入ったのかそれとも抜けたのか、彼の後孔から滑り落ちたガラス玉が、土の上をひとつ転がっていく。
咄嗟に手を引く寸前に、乳首の周囲に這わせていたメスの鋭い切っ先が、僅かに皮膚に食い込んで傷を作った。
「…ン、」
「あーあ、落としちまったの？」浮き出す小さな血の粒を眺めながら言った。「落としたら酷くするって言ったよな？ そのうえ動くから切れちまったじゃない、血を見るのはおれの好みじゃねえのに」
「キリコ…も…」
「消毒薬なんか持ってきてないんだよね」
「アアッ」
身体を屈め、その血を舐め取るように舌を這わせた。下から上へ、小さな傷も合わせて乳首を舐め上げ、それからきつく吸ってやると、彼は悲鳴のような喘ぎを洩らした。
唾液に混じる血の味、高い陥落の声。ここが何処であるか、自分が何をされているか、果たして彼は判っているのか。
刃物で少し撫でられただけで肌が過敏になってしまったのか、彼は私のどんな無造作な動きにも全身を震わせて反応した。メスの柄のほうを、突き刺すように鳩尾へぐっと食い込ませ、そのまま臍まで滑らせる。愛撫とも言えないそんな刺激にさえ吐息を尖らせて応える。
これが柄ではなくて刃のほうだったとしても、彼は本当に内臓をはみ出させて悦ぶんじゃないだろうかと、そんなことを思った。
ヒトゴロシの手にかかり、彼は喜んで殺されるんじゃないだろうかと。
それが私の手ならば。
彼が自ら暗示にかかっている限り。
甚だしい勘違い。
吸い上げた乳首に歯を立てながら、暫く上半身を弄んだあと、今度は立ち上がった彼の性器にメスを当てた。
「あ…、」
「動くな。こんなとこ切っちまったら洒落にならないぜ？」
「…ン、」
それでも厭とは言わないか。
左手を添え、先端に滲み出た体液を、刃先を平らにしてぬるぬると塗り広げた。時々脅すように背側を立てて横へ滑らせると、彼はきつく閉じた瞼の縁に涙を浮かばせて喘いだ。屈辱、羞恥、どころか恐怖さえ快感に塗り替える、その盲目的な霧を振り払って視界をクリアにしてやるには、いったいどうしたらいいのだろう。
これは快楽ではない、と知らしめるには。
メスの柄の部分でしつこく裏側をなぞり上げているうちに、不意に、てのひらに鮮やかな痛みが走った。思わず苦笑が洩れた。馬鹿馬鹿しい、自分の手を切ってどうする。
「キ、リコ…、キリコ…ッ」
溢れた血で滑るメスを投げ捨て、その血まみれの手で彼の性器を強く握りしめると、感極まったように彼は泣き声で私を呼んだ。この空気に散る血の匂いに、彼が気付かないはずがない。
酔うか。
私の血。
堪えきれなかったのか、彼の尻からガラス玉が、ぼたぼたと地面へ落ちた。五つ、六つ、飲み込ませた数の半分くらい。
「落としちゃ駄目じゃない、先生」
自分の服を軽くくつろげ、反応している性器を取り出してから、脚を開いて素足で土の上に立つ、その彼の右脚を膝の裏から掬うように左腕で抱え上げた。血で滑る右手のてのひらを彼の肌で拭き、左脚も同じように抱え上げる。
太い木の幹を背に、完全に身体を持ち上げられて、彼が当惑したような声を上げた。
構わずに尻を掴んだ両手で彼の体重を支え、股間を摺り合わせる。これで反応するのだから誰を変態とも罵れないか。
「は…、」
「落とすなって言ったよなあ。娘の大事な玩具をそんなに粗末に扱っていいわけ？ 仕方ない、言っても判らないみたいだから、おれが塞いでやろう」
「待、て…ッ、そんな…、無理…ッ」
「平気だろ？ たとえ無理だっておまえなら平気だ、おまえなら、おれに何されたって平気だ。それとも厭か？ 言ってみろ、厭だと、言えよ」
枝に縛り付けた二本のタイには、彼の体重を支えるだけの強さはないだろう。何もこんな不安定な姿勢でやらなくてもとは思うが、このくらい不安定なほうがいいような気もする。
両手に更に力を込めて引き寄せ、尻の肉を握ったその狭間に性器を擦り付けた。彼は咄嗟に逃れようと身悶えたが、この体勢ではそれ以上もがくこともできず、後孔に先端をぐっとあてがわれてただ震えた。
「キリコ…ッ」
「さあ、言い訳を聞こうか」今にも突き破ろうするその直前で動きを止め、優しくも厳しくもない声で言った。「どうしてポストからエアメールを盗んだ？ どうしておれに黙ってオペをした？ ちゃんと言い訳しろ、ブラック・ジャック」
「ア…、だ、ってあんた、見ていた…、見ていた、じゃ、ないか…」
硬い性器の先を押し当てられた後孔の入口をひくつかせ、彼は譫言のような調子で答えた。
「見ていた？ 何を」
「私、が…ポストから、手紙、を、抜くのを」掠れた声に、まだまともな思考が残っているのかどうかはあやしいところだ。「あんた、窓から、見てた。でもあんた、何も言わなかった、から、…そうして欲しかったんだと、思った。わざと見逃して、私に、そうして、欲しかったんだと、思った」
「…おれが、どうして欲しかったって？」
「黙って、あんたに黙って、オペして欲しいのかと、思った。気付かないふりを、するから、黙って奪えと、言ってるんだと、思った。…患者を、助けて欲しいのかと、思った。もし、そうじゃなくて、もし、それが…、」
「…もしそれが？」
「…もしそれが、私に、ただ、こうやって、仕返しを、するためだけ、なのだとしても、それでいいと、思った」
「…大した言い訳だ」
信じない。
甚だしい勘違い。
ちらりと見やった彼の濡れた目が、月の光を映してとても綺麗に光った。
そう、とても綺麗だ。
赤く染まった海、溺れて沈む間際の魚の群れを横切る、その同じ軌跡を走る誰かを捜し求める凶悪な寂寥。冷たく熱く澄んでいたはずの水がたとえ濁っても、届かない太陽の光には気付かず貪欲に追いかける。
おまえが思うほどには私とおまえは理解し合わない。
人間だもの。誰だって一人だろうよ。
咬み合わない骨と骨をそれでも肌で覆って重ね合わせて、痛みに近い恍惚を与え合う。できるのはただそれだけ。流れる血を全て飲み干しても溶け合うどころか混ざり合うこともできはしない。
目を覚ませ。
それは夢物語なんだ。
おまえが見ているのは私であって私でない。
おまえが求めているのは私であって私でない。
見てくれ、私を。
「アア…ッ！」
腰を突き上げるようにして狙いを定めた切っ先を食い込ませると、首を仰け反らせて彼が喚いた。入口のきつい抵抗を押し分けて、その声を聞きながら、じりじりと犯していく。
両手で掴んだ彼の尻の肉がびくびくと震え、同時に内部が熱く蠢いた。
右手が滑る。
ああ、酷い血の匂いだ。
押し込んだ性器の先端で、丸く硬いガラス玉を感じた。
彼の体温と混ざる異物、内部にぎゅっと力が加わるたびにごろごろ位置を変えて触れる。
そのガラス玉のぶん普段より深く広げられ、彼は息も絶え絶えに、抱え上げられた身体を強張らせていた。知らない場所まで浸食される恐怖と、臨界点の悦楽。
厭だとは言わない健気な夢見る迷い子。
「可愛い娘に犯されている気分になるか？」
「あ…！」
尻を掴んで彼の体重を支える両手を上下させ、性器でガラス玉を掻き回すように彼の後孔を突いた。私の言葉が聞こえているのかいないのか、彼は幾度か熱に浮かされたみたいに頭を左右に振った。
乱れた長い前髪が、眉を寄せた彼の表情を隠す。
細いタイに戒められた両手に力がこもり、自らのてのひらに爪を食い込ませる。
さてこの麗しき贄、何処のカミサマ、何処の悪魔に捧げよう。
「キリ、コ…、キリコ…ッ」
抜ける寸前まで彼の身体を持ち上げて、それから勢いよく猛った性器の上へ引き落とす。下からも腰を使って突き上げる。
じっくりと何度も、気が遠くなるほど繰り返すと、その律動に慣れた彼が内部の動きを合わせてきた。
引き出すときには柔らかく纏い付き、突き込むときにはきつく絡み付いて擦り上げられる熱を待つ。
根本まで飲み込んで吸い上げる。ガラス玉を軋ませて。
私の名を呼ぶ。
何度も、気が遠くなるほど、繰り返し。
ねえ、まるで、月明かりの下、木の枝に縛り付けられて、素肌にコート一枚、裸足で抱え上げられて、血の匂いに酔って。
ねえ、まるで、恋人でも呼ぶように私を呼ぶのね。
「…キチガイ沙汰だ」
両手で掴んだ彼の尻に爪を立て、リズムを狂わせて揺さぶると、彼は夜闇に鋭い悲鳴を散らせた。
「アア！ ア…ッ！」
「キチガイ沙汰だって言ってんのよ、ブラック・ジャック先生。どうやったらおまえは厭がるんだ？ どうやったら厭だと言えるんだ？ どうやったらちゃんと、本物のおれを見るんだ？」
「ア…、キリコ…！」
「おれはなあ、意地が悪くて意地汚くて、これっぽっちの慈悲もない、おまえなんかとは較べものにもならないサイアクの変態なんだよ。おれに抱かれて悦んでんじゃねえよ」
「ヒ…！」
尻を手前に引き寄せて、その位置で激しく腰を突き入れる。彼の内部でガラス玉ががちがちとぶつかり合うのが判った。
背を預けた太い木の幹に肩を打ち付け、髪を振り乱し、泣き喚く彼は、とても綺麗で、汚い。
美しくて、醜い。
唇の端から唾液を垂らし、ぎゅっと瞑った瞼からは頬へ涙を流し、正気では聞いていられない淫らな声を上げ、私の手で、嘘だらけの半狂乱な夢を見る。
駄目だ、もっとだ。
背を向けるのは簡単だ。捨ててしまえばそれでいいんだ。
けれど、その煌めく赤い瞳に一度も映らないまま、この爛れた輪郭を一度も映せないまま、消えていくのは許せない。
もっと、もっと、手酷いことをすればいいんだ。明日も、明後日も、手酷いことをすればいいんだ。
おまえが厭だと言うまで。
私に本気で逆らうまで。
厭だと言え。厭だと言え。厭だと言え。
「厭だと、言え！」
「は…、キリコ…」
尻に指を食い込まされ、激しく揺さぶられながら、彼がほんの僅かに瞼を上げた。
一瞬だけ視線が重なった。
血色の瞳は、ぞっとするほど澄み渡っていた。
「…私は、…見えて、る…っ」
「…」
深く打ち込んで、短く、唇に噛み付くだけの口付けをした。
嘘つき、見えているものか。
おまえに見えているものか、私に逆らわない、おまえに。
「アア、ア…！」
木の幹に押し付けるようにして彼の身体を片手で支え、片手で性器を擦りながら角度を変えて突き上げると、彼は片脚を私の身体に巻き付け、全身をびくびくと痙攣させて、呆気なく達した。
咬み合った視線を遮るように、きつく閉じられた瞼の縁から、ぽろぽろと涙が零れて落ちた。
ああ、この気高い魂よ。
どうか穢れた私など切って捨ててくれ。
ガラス玉が砕けるのではないかと思うくらいに締め上げてくる肉を、高波に攫われる間も許さずに掻き乱す。
「あ…ッ！」
てのひらで受けた精液を彼の肌に擦り付け、手を彼の尻に戻して更に腰を使った。痙攣の止まない身体を波打たせて、彼は掠れた叫び声を上げた。
残酷なほうがいい。
まやかしの悦楽なら気がふれてしまえばいい。
どうか。
どうか。
「厭だと、言え…」
あなたの唇で。
解放を許した頃には彼の意識は切れていた。奥深くに注ぎ込み、抱え上げていた彼の身体を放すと、彼はそのまま壊れた人形みたいに木の幹をずるずる滑り落ちた。
十時に戒められた両手のタイが、体重を支え切れずにちぎれて地面に散った。ほら見ろ、こんな拘束、簡単に解けるじゃないか。
乱れた自分の服を直してから、木の根本に崩れて横たわる彼の前へ片膝を付いた。
素肌を隠すコートを払いのけ、左手の指を二本後孔に突っ込んだ。
「ウ…、」
彼の身体が一瞬強張り、低い呻きが洩れたが、彼が目を開ける様子はなかった。
今まで男の性器に穿たれていた彼の秘所はずるずるに溶けて潤んでいた。二本の指を広げるようにして奥を探り、精液に濡れたガラス玉をひとつずつ掻き出す。四つ、五つ、六つ。
洗って返してやってもいいが、さすがにこれで娘が遊ぶ姿は見たくないだろう。
地面の上に投げ出したガラス玉は、土にまみれて汚らしく転がった。まるで誰かのようだと思った。私の欲を塗せられ犯された鈍い光。
綺麗に洗って返してやれば、紅く美しく透き通って煌めくのに。
見たくないか？
「…」
見たくないのか。
地面に放り出していたメスと剪刀を拾い上げて自分のコートの内側にしまう。少し離れた場所に捨てた一本は乾いた血で気味悪く光っていた。
左手で柄を握る。右手を開いててのひらを見る。血液が固まり、塞がりかけた鋭利な傷に、刃を当ててゆっくりと引く。
あまり痛みを感じない。
こうなってきたらおしまいか。
傷口に新たな血液が盛り上がり、指先を伝って地面に落ちた。
精液で汚れたガラス玉、二本の切れたタイ、土の上には血痕、朝日が昇って誰かがこの有様を発見したら、ここで一体何があったのかとさぞかし怯えるだろう。面白い。
血の溢れる右手で彼の頬を撫でた。
涙の跡を残す彼の肌にべったりと血を擦り付けた。
月光の下で青白い顔、長い睫と濡れた唇、左の頬を血色に染めた彼は寒気がするほど美しくて、汚かった。
囚われているのは誰。
倒錯に堕ちているのは誰。
それはおまえと、それから私。逆らえないおまえと、愛せない私。
捨てられない私。
許せない私。
ああ、酷い血の匂いだ。
血に濡れたままのメスをしまい、汚れた彼の素肌をコートでくるんで、両手に抱き、立ち上がった。本日失ったもの、ネクタイ、ビー玉、以上。本日手に入れたもの、ひとつもありません。
見えてるだって？ 夢物語に沈むおまえは、いつも嘘ばかり。
力無く崩れそうになる彼の身体を抱いて、濃く茂る木々の合間を縫い、芝生の植えられた広場に出た。突っ切って、車に向かう。
月の明かりが痛い。
足下は抉れた断崖、目の眩むような頂に一人立って、誰かの腕を待つ。それが私？ 笑わせる。
次に目が覚めたら、今度こそリアルだ、今度こそ言え。さあ、言え。
厭だと言え。
私が厭だと、言え。
（了）